「危機の時代を生きたあるキリスト者」
ディートリッヒ・ボンヘッファーは、1906年、ドイツの良家に生まれました。恵まれた家庭環境の中、最高の教育を受け、若干21歳で神学の博士号を取得し、三年後には二つ目の博士論文を書き終えて、ドイツの大学で教える資格を取得しました。24歳になったボンヘッファーは、なお牧師按手を受ける年齢に達しておらず、アメリカ・ニューヨークにあるユニオン神学大学に一年間留学します。そこでハーレムにある黒人教会で奉仕しながら、今まであったことのない人々との交流に目覚めます。
ドイツに戻りベルリン大学で組織神学を教えながら、活発に教会の働きに身を投じます。しかし、ドイツは大混乱の時代に突入します。1933年、ナチス党が世界中を驚かせながら政権を握ります。その脅威を過小評価する識者が多い中、ボンヘッファーは初期から意を決してナチス主義の全てを否定し批判しました。ナチス政権は、ドイツ教会にも統制を強めて来ました。ドイツ教会においてユダヤ人やユダヤの血筋を継ぐと思われる全ての人物から牧師資格を剥奪し、教団の役職からも解任しました。ドイツ教会では「ドイツ人キリスト者」と呼ばれる、ナチス政権になびく勢力が主流となり、キリスト者である前にドイツ人であることを要求する政権に従うようになりました。これはおかしいと思う多くのキリスト者が沈黙を守る中、少数の群れは抵抗しました。やがてキリスト教の真理を守ろうとする「告白教会」が結成され、ボンヘッファーは若手の牧師として中心的な役割を担いました。
しかし国家の圧迫は強まるばかりです。告白教会は、政府によって違法とみなされ、その神学校も閉鎖されました。ボンヘッファーは、非認可となった神学校で神学生たちを教える働きを続けました。この頃、ボンヘッファーはマタイによる福音書の山上の説教を深く黙想しながら、キリストの共同体が共に生きること、弟子としてイエス様に従うことについて著作を残しています。やがて、村から村へと拠点を移しながら、逃げ回りながらも牧師を養成する働きを諦めませんでした。必ず危機を超えてドイツ教会が再建される時がくること、その時には新たな働き手が必要になることを信じていました。
1939年、一年間留学していたアメリカ・ユニオン神学大学から招聘が来ます。多くのドイツ人知識人がアメリカや世界各地へ避難する時代でした。しかし、ニューヨークに着いてから二週間後、ボンヘッファーは自分を招待してくれた著名な神学者ラインホールド・ニーバーに次の手紙を送ります。
「今回、私がアメリカに来たことは間違いであるという結論にたどり着きました。我が国が困難なこの時代、私はドイツの人々と共に生きなければなりません。私が今、ドイツの人々と共に苦難を耐えなければ、戦後、ドイツのキリスト教が再建される時、それに携われる資格がないでしょう。ドイツのキリスト者には恐ろしい選択が迫られています。我が国の破滅を願うことでキリスト教文明が生き延びることを選ぶか、我が国の勝利を願うことで文明と真のキリスト教の滅亡を選ぶか。私にとってはどちらを選ぶべきか自明です。しかし、その選択を安全なところですることは出来ないのです。」
このような手紙を残してボンヘッファーはドイツに戻りました。ドイツにおいてボンヘッファーは大学の教授職から解任され、一切の出版活動が禁じられます。その頃、ドイツ軍部情報機関ではナチス政権に対する反乱を企てる者たちがいました。その人々がボンヘッファーに接触してきます。彼がアメリカやイギリスで築いた人脈を用いて、連合国側とコンタクトを取り、抵抗運動を知らせるためでした。ボンヘッファーは、この組織がヒトラー暗殺計画までも進めていたことを知っていたと言われます。平和主義を貫いていたボンヘッファーは悩みました。神学者として、キリストに従うこと、責任を負うこと、身代わりとなることにつての深い考察を残しています。そして、悩みながらもこの抵抗運動に加担したのでした。
やがてこの抵抗組織は摘発され、ボンヘッファーも逮捕されます。そして、1945年4月9日、処刑されます。39歳の若さでした。その年の5月8日、ドイツの降参によりヨーロッパでの第二次世界大戦は終結しました。処刑が一カ月遅れたらボンヘッファーは生き延びたことでしょう。ボンヘッファーはドイツ教会の再建に携わることは出来ませんでした。しかし、彼の生き方と考えは、ドイツを超え、困難な時代を生きなければならない世界中の信仰者に今日も大きな勇気を与えます。ホーリネス弾圧の月を迎えながら、私たちはこのキリスト者の人生を覚えます。
「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。」(Ⅱテモテ4:2)
淀橋教会主管牧師 金 聖燮

