キリストの愛に満たされた生涯(7)
第2章 キリストの愛によってどのように生きるのか
さて、今まで「キリストの愛」とは、どのような愛なのかと言うことについて語って来ましたが、それではお互いキリスト者は、この「キリストの愛」をどのようにお互いの日常生活の中で実践して行ったら良いのでしょうか。
そうです。そのためにはまず前述した淀橋教会のミッション・ステートメントに注目してみましょう。ここには私たちの教会が、「キリストの愛(アガペー)によって、愛(アガペー)されている者たちの群れであって、これを『アガペー共同体』と呼ぶ」と宣言されています。お互いは、このことを常に心に深く留めて歩まなければなりません。そうです、一瞬でも忘れずに心に留めて歩みたいものです。愛兄姉方は、果たしてそうしているでしょうか。是非そうして下さい。そうするならば、初めて外部から教会に来た人々が、そこに世間の一般的な諸集団の中では、決して見ることが出来ず、また感じ取ることのできない麗しく温かく、明るい交わりを体験することが出来るでしょう。なぜなら、ここには「アガペー共同体」であって、キリストの愛(アガペー)が満ち溢れているからです。そして、そこにいる一人一人の兄弟姉妹たちが、礼拝の度ごとにアガペーの「ミッション・ステートメント」を唱和し合い、それを各集会と交わりの中で実践しているからです。しかも、それを誰一人として義務感や戒律として行っているのではなく、皆が心から喜びを持って、互いに主を讃美しながら、生き生きと実践しているのです。なぜなら、その一人一人が、キリストの愛(アガペー)を自ら体験し、その愛(アガペー)に押し出されているからです。すなわち、各人がアガペーの主イエスをその心の中に迎え、彼らの心の中にアガペーの主ご自身が住み、彼らをアガペーで満たし、彼らの心からアガペーが溢れ出るようにして下さっているのです。ですから使徒パウロは、こう言いました。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(Ⅱコリ5:14新共同訳)と。この「駆り立てている」と言う意味には、「強く押し迫っている」(尾山令仁現代訳)とか、「捕らえて離さない」(聖書協会共同訳)と言う意味があります。いずれにしても、主イエス・キリストの愛(アガペー)が私たちの心を占領し、私たちの心の内から湧き上がるように押し出し、アガペーを他の人々に放出させて下さるのです。実にこれこそが、キリストの愛の御霊である聖霊の満たしと聖めに与ったお互いの身に起こる「掛け替えのない恵み」なのです。何と幸いなことでしょう。ですから、愛する兄弟姉妹、いかに聖霊に満たされ、「内にいますキリスト体験」(内住のキリスト経験)を明確に拝受することが重要であるかが、お分かりになるでしょう。常に聖霊に満たされて生活したいものです。その時、常にアガペーに生きることが可能となるのです。そして、この恵みの上に立って、ミッション・ステートメントが、必然的にお互いの尊いミッションとして打ち出されるのです。それでは、以下においてその「ミッション・ステートメント」の一つ一つについて、コメントしてみましょう。(続く)
◇
峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。