キリストの愛に満たされた生涯(8)

第2章 キリストの愛によってどのように生きるのか(前回に続く)

Ⅰ. 通常の世間で言う「愛」と「アガペー」(愛)との根本的違い

さてここで、「ミッション・ステートメント」の一つ一つをコメントする前に、その根底となる「アガペー」と言う「愛」が意味している真理について、今一度明確にしておきたいと思います。すでに何度もいろいろな場面で述べて来たことではありますが、ここでも今一度繰り返し、「アガペー」の定義を記しておきたいと思います。すなわち、「アガペーとは、相手のために、しかも自らに敵対し、不利益を与える相手のためにさえ、あえて自己犠牲を甘受して、その相手の祝福のために、献げ、仕えて行く、何一つ見返りを期待しない、心と生活である」と言うことです。

この定義を口ずさみながら、静かに自分の心の中で一語一語の意味を深く汲み取りながら、通常自分や世間一般の人々が考えて来た「愛」と比較してみる時、そこには大きな違いがあることに気付かされないでしょうか。そうです、そこには全く根本的・本質的な違いがあることに気付かされることでしょう。この根本的・本質的違いがあることにしっかりと気付き、アガペーのミッション・ステートメントに取り組まない限り、そのミッション・ステートメントは空文化してしまうに違いありません。ではその違いは、どんなことなのでしょうか。

まず第一に、「アガペー」は神の次元に根差すものです。しかし、通常の人間の愛は、人間の次元に根差す愛であると言うことです。そしてその「アガペーの愛の本質」は、「神の愛」、つまり十字架に架かり罪人である人間を救うために命を与えられた「キリストの愛」に淵源(えんげん)するもので、それは霊的・信仰的性質を有するものです。しかし、通常の「人間の愛」は、有限な人間性に淵源するものであって、それはどんなに素晴らしくても、所詮は人間の理性的・感情的性質から出た所産に過ぎません。ここに両者の決定的な根本的・本質的違いがあるのです。これを決して混同してはなりません。

第二に、「アガペー」は、敵対する者に対しても敵意を抱かず、赦し受容する愛であり、そこには寛容と忍耐が不可欠です。しかし、人間の愛にはそれは必ずしも不可欠ではなく許容され、時としては円熟した人には、アガペー類似の愛を表現することが出来ます。しかし、それは容易なことではありません。

第三に、「アガペー」には、自己犠牲を甘受して、相手に仕えることが出来る献身的・自己放棄的性質が常に宿っています。しかし、通常の人間の愛は、時と場合と相手次第によっては、断続的にこのことが可能であっても、多くの場合はそれが不可能なのです。

第四に、「アガペー」は、常に無欲であって、決して見返りを望みません。しかし、通常の人間の愛は、有形もしくは無形の何らかの報いを期待しています。ですからその愛が報いられなければ、その時点で愛が終止してしまいます。しかし、「アガペー」は、持続し、良き目的が完了するまで終わることがありません。それは聖霊に導かれている愛であって、人間の思いや感情から出た愛ではないからなのです。

概ね、「アガペー」と通常の人間の愛とでは、以上のような根本的・本質的な相違があるのです。ですから、お互いキリスト者は、ただ世間一般で言われている「愛」で、愛し合うのではなく、あくまでも「アガペー」の愛をもって「互いに愛し合う」ことが求められていることを、深く心に銘記しなければならないのです。決して安易になってはなりません。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。