信仰生活の羅針盤(25)

峯野龍弘主管牧師

第11章 全き愛を追い求めて生きよう

さあ、いよいよ本稿も大詰めを迎えました。「信仰生活の羅針盤」を用いて人生の大航海を終えて、究極の目的地である憧れの永遠の都の美しい港に、無事に辿り着こうではありませんか。その途上には、幾多の嵐もあり、また時には危険な岩礁(がんしょう)に遭遇したり、まれには恐るべき戦争に巻き込まれたりすることさえあり得るのが、人生の大航海です。しかし、いかなる時にも優れた羅針盤と海図を頼りに、方向を見失うことなく航海を続けるならば、必ず誰もが天の望む港に安着することが出来るのです。だから、お互いは励んで羅針盤を頼りに、人生の大航海を続けようではありませんか。

Ⅰ.「全き愛」こそ、求めるべき最高のもの

さて、そこでお互いがこの地上で追い求めて生きなければならない最高のもの、つまり究極の目標は、何でしょうか。それはすでに学んで来た「愛」、「全き愛」、「アガペー」です。徹底的な律法主義者であった使徒パウロが、遂に辿り着いた平安と聖きと喜びに満ち溢れた「永遠の幸福の港」は、「愛」だったのです。ですからこの港に辿り着くことが出来た使徒パウロは、大なる確信を持ってこう言い切ることが出来ました。「私は、最も優れた道をあなたがたに示しましょう。…最も大いなるものは、愛です。」(Ⅰコリ12:31b、13:13)と。しかも、これは人間の知恵や能力から出るものではなく、神のみが与えることの出来る「神の賜物」なのです。それゆえ、彼は声を大にしてこう勧めたのです。「もっと大きな賜物を熱心に求めなさい。」(同12:31a)と。

では、その彼が神から頂いた愛とは、いかなる「愛」だったのでしょうか。その「愛」は、「忍耐強く、情け深く、決して妬まない愛、自慢せず、高ぶらない、礼儀正しい愛、自分の利益を求めず、怒らず、決して悪をたくらまない愛、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える愛」(同13:4~7)だったのです。何と混じりけのない純粋な愛であったことでしょう。これを「全き愛」と呼びます。また、何と自分の利益を求めないばかりか、喜んで不利益を忍び、自己犠牲を甘んじて受け入れる献身的な愛であったのです。これを「アガペー」と言います。このような愛こそ、神のみ子主イエス・キリストが十字架上で示された「全き愛」、「アガペー」でした。使徒パウロは、この「キリストの十字架の愛」を、キリストの弟子たちを迫害するためダマスコへ向かう道の途上で、復活の主イエスに出会い、身をもって体験したのでした。このキリストの愛を身をもって体験した彼は、この大きなキリストの「全き愛」、「アガペー」の虜(とりこ)となってしまいました。それゆえ、この瞬間から「徹底した律法主義者」であった使徒パウロは、「徹底した全き愛の人」、「アガペーを求めて生きる人」に生まれ変わってしまったのでした。そしてこの道こそが、すべての人間が追い求めて生きるべき「最高の道」と確信したのでした。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。