信仰生活の羅針盤(26)

峯野龍弘主管牧師

第11章 全き愛を追い求めて生きよう

(前回に続く)

Ⅱ.愛(アガペー)こそ聖めの本質

使徒パウロが、キリスト者が追い求めるべきものの最高峰は、愛(アガペー)であることを明示してくれましたが、実はこの愛こそが「聖めの本質」なのです。そこで以下にこの点について次に言及致しましょう。

さて、「聖めの恵み」の重要性については、すでに第6章以降において詳述したとおりですが、実に、その大切なキリスト者の「聖めの本質」こそ、「愛」(アガペー)に他なりません。そもそも神の二大性質は何かと言えば、それは「愛と聖」であるのですが、しかし、これは実は「愛」と「聖」と言う二つの性質が並列に並び、それぞれが独立して存在していると言うようなものでは、断じてありません。それは決して切り離すことの出来ない「二つにして一つ」である性質なのです。ですから神は、「聖にして愛」、「愛にして聖」なるお方であって、ギリシャ語の「アガペー」(愛)と言う言語を、昔の先輩聖徒たちは、これを「聖愛」などと訳しましたが、適訳だと思います。なぜならば、聖書全巻の光の下で「愛と聖」を正しく解釈するならば、「愛なき聖は、聖ならず、聖なき愛は、愛ならず」と言うことが出来ます。「愛なき聖」は、旧約の律法学者やファリサイ派の人々の主張する「聖」であって、それは律法的・倫理道徳的な「聖め」に過ぎず、そこには恐るべき「裁き」が結果します。また、「聖なき愛」は、ヒューマニストが主張する世俗的・人情的な「愛」に過ぎず、それは肉欲的な「エロス」の世界を生み出します。それゆえ「愛と聖」は、決して切り離すことのできない「一体」のものなのです。すなわち、「愛は聖めの本質であり、聖めとは、愛に生きること」なのです。しかも「真の愛」(アガペー)とは、聖霊に満たされ、自我や我執、我欲や自己主張を主に全く献げ切った「相手のために、しかも自らに敵対し、不利益を与える相手のためにさえ、あえて自己犠牲を甘受して、その相手の祝福のために、献げ、仕えて行く、何一つ見返りを期待しない、心と生活」なのですから、ここにこそ「真に聖められたキリスト者」の本質が息づいているのです。

そこでこう結論することが出来ます。「愛(アガペー)なきところには、ホーリネスなし!」と。(続く)

 

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。