「十字架上の七言」
3月29日から私たちは、十字架に向かわれる主イエスの最後の一週間、受難週に入ります。キリスト者は日々、イエス様と共に歩みます。受難週においては、いつにも増して心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、イエス様の後に従って十字架の道を歩みましょう。主は、十字架の上で贖いの働きを完成されました。そこで語られた最後の言葉を四福音書から集めたものを「十字架上の七言」と呼び、多くのキリスト者たちは受難週にこれを黙想してきました。
1.「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)
主イエスは、私たちに天地創造の造り主を大胆にも「父よ」と呼び、祈ることを教えてくださいました。真の意味でそう呼べるのは、独り子なる御子キリストだけです。しかし、キリストの中で私たちも神を「父よ」と呼ぶことが出来ます。イエス様の赦しの言葉を私たちのための言葉として受け入れましょう。十字架には様々な意味がありますが、第一は罪の赦しです。自分が何をしているのかも分からないのが、霊的に眠っている、無感覚な、罪の状態です。主よ、私を赦してくださいと祈ります。
2.「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)
主イエスの両側には二人の強盗が十字架につけられました。その内の一人は、イエス様を罵りました。死を前にする恐怖からそうしたかも知れません。しかしもう一人のほうがたしなめました。自分たちは当然の報いを受けているが、イエス様には罪がないことを理解しています。そして、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と願います。それに対するイエス様の答えです。この強盗が善い人で、善いことを行った代価として天国が約束されているのではありません。ただ神の恵みによるのです。それを求め、受け入れたこの強盗は、私たちと変わりません。
3.「女よ、見なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26-27)
全世界の罪を背負って苦しまれる主イエスは、最後の瞬間に母を思います。イエス様の働きの初期の頃、イエス様の母ときょうだいたちは、イエス様を良く理解していませんでした。気が変になったと思い、連れ帰りに来たこともあります。しかし、他の弟子たちと同じく、イエス様の家族もイエス様を徐々に理解するようになったと思います。イエス様は、母マリアと弟子のヨハネを新しい家族に結び合わせてくださいました。神の家族である兄弟姉妹は、イエス様が引き合わせてくださった私たちの家族です。
4.「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46、マルコ15:34)
三位一体の父なる神から永遠にお生まれになる独り子、その間を分かつものは何もありません。にもかかわらず十字架の上でイエス様は、この悲痛の叫びを口にされました。罪、それは神ご自身がここまで重く受け止めるものです。決して軽いものではありません。この言葉は、詩編22:2のダビデの詩の引用です。イエス様は、徹底的に聖書の言葉の成就としてご自身の命を燃やされました。罪は、神から私たちを引き離す恐ろしいものです。その苦しみを、全被造物を代表してイエス様が全身に受け止められました。私たちの苦しみ、肉体的であれ精神的、霊的であれ、イエス様はそれをご存じです。そのお方に私たちも祈りで叫び、嘆いて良いのです。
5.「渇く。」(ヨハネ19:28)
同じヨハネによる福音書の中でイエス様は言われました。「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」(7:37)。主イエスが渇いてくださったことによって、私たちには渇くことのない永遠の水を与えてくださいました。イエス様と私たちの間には、身代わりの関係があります。主の招きに応じて、主のもとに来て飲みましょう。他の何も私たちの渇きを潤すことは出来ないからです。
6.「成し遂げられた。」(ヨハネ19:30)
十字架の上で神の壮大な救いの計画は完成されました。誰もそのスケールの大きさと広さを理解していなかったでしょう。私たちは、キリストの贖いの働きに何一つ付け加えることは出来ません。私たちのいかなる献身も、信仰も、善い行いも、ただ主の恵みに対する感謝であり、救いを買い取る代価ではありません。人々は、ナザレのイエスが無残に失敗したと思いました。神の働き方は神秘に満ちています。私たちの期待を逆転します。ただ信仰でこの恵みを受け入れましょう。
7.「父よ、私の霊を御手に委ねます。」(ルカ23:46)
最初の言葉が「父よ」で始まるように最後の言葉も「父よ」と呼びかけます。父から永遠にお生まれになる御子は、やがて父のもとに戻るのです。父と子の交わりを断つことは、罪でさえ、悪でさえ出来ないのです。聖霊がその帯です。そして、父と子から永遠に遣わされる聖霊は、私たちもその交わりに招き入れます。教会は、聖霊によってその交わりに励み、躓きながらも、その交わりをもっと深く理解しようとする人々の集まりです。イエス様が神にご自身の全てを委ねたように、私たちも委ねましょう。主の御手の中で私たちは平安です。
淀橋教会主管牧師 金 聖燮

