キリストの愛に満たされた生涯(5)
■教会標語
「共同体の使命達成と目標の実現」―創立120周年の礎の上に立って―
■教会聖句
「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
フィリピ3:13~14
頌主寿春 2025年
「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。」(イザヤ43:19)
第1章 キリストの愛とはどのような愛か(前回に続く)
Ⅴ. 神の栄光を顕(あらわ)すために創造された愛
私たちを愛して下さる神の愛を言い表している聖書中の表記で、最も素晴らしい記述の一つは、イザヤ書の43章1~7節ではないでしょうか。そこには何重かに亘る神の愛の表記があります。それらについて以下に記述してみましょう。
① 創造の愛
先ず第一は、「創造の愛」です。そこには私たちを創造された神の愛が、力強く表現されています。「ヤコブよ、あなたを創造された方 イスラエルよ、あなたを形づくられた方 主は今こう言われる。」(1a)と書き出されていますが、これは決してヤコブ、イスラエルだけに限った言葉ではありません。すべての人々、そしてすべての被造物の創造とその存在の背後にある神の愛を思わせてくれます。天地創造の初めに神が人間とすべての被造物を創造し、形づくられた時、神はそのすべてにご自身の愛を込めておられたのでした。この地上に存在するすべてのものは神の愛から生まれました。神の愛によらないものは、何一つなかったのです。神は愛だからです。そして、その愛の最高の傑作が、私たち人間だったのです。だからこう言うことが出来ます。「初めに神の愛があった。すべてのものは、神の愛によって成った。神の愛によらないものは、何一つなかった」と。それゆえ存在するものは、すべて大切なものなのです。その背後には神の愛が秘められているからです。
② 贖(あがな)い、名づけ、自分の者として寵愛する愛
第二は、他の者に所有され、他者の支配下にあった者を、高い代償を支払って自らの許(もと)に迎え、しかも名づけ寵愛する愛です。つまり、本来神の愛の内にあって創造された神の子であったはずの私たち人間が、サタンの誘惑に陥り、罪の支配下の虜にされていたにもかかわらず、父なる神は、御子イエスの十字架の死と言う高価な代償を支払って私たちを買戻し、贖い、再びご自身の愛の下に迎えて下さったのです。のみならず、新たに名づけ、一人一人を個別で名を呼び、もはや何者にも引き渡すことのない「あなたは私のもの」と主張して下さる、どこまでも私たちを寵愛して下さるお方となって下さったのでした(1b)。
③ 如何なる逆境・試練・災いの中にも共にいて救ってくださる愛
第三に、たとい私たちを押し流す洪水のような試練や焼き尽くす火のような災いに遭遇することがあろうとも、主は常に共におられて、その中からお互いを救い出してくださる愛に富める「救い主」となって下さったお方です(2~3)。
④ 御目に尊び価値ある者として重んじて下さる愛
第四に、主は私たち一人一人を御目に尊い者、価値ある者と見做(みな)し、重んじて下さっておられる愛に満ちたお方です。ですから、この世には卑しい者、価値なき者など一人もいないはずです。神の御目から見て尊い者、価値ある者と認められているのに、どうして人がそれを卑しめ、見下し、価値なき者と見下して良いものでしょうか。一人一人の人間の存在は、実に尊く価値ある存在以外の何ものでもないのです。
⑤ 神の栄光を顕(あらわ)す者として創造した愛
第五に、神は、私たちを神ご自身の栄光を顕す者として創造されたのです。何と言う愛でしょう。神は私たちを愛し、神の栄光を顕すためにお用いになろうとされたのです。他の被造物さえ神の栄光を顕すことが出来るとしたなら、神の愛による最高傑作として創造された私たちが、それらよりはるかに優って神の栄光を顕せないはずがありません。だから主はイスラエルの民に、「私の栄光のために創造し 形づくり、私が造り上げた者」(7)と言われたのです。そしてこの言葉は、単にイスラエルの民ばかりではなく、本来、すべての人間に共通する真理です。天地創造の時、神が人間を全被造物の最後に創造され、その人間に対して、「神は人を自分のかたちに創造された。」(創世記1:27)と記されているように、人間だけが「神のかたち」と呼ばれるほどに、神を顕すことが出来、神と交わり、神と語り合い、神の御心を分かち合える存在として創造されたのでした。これこそが神の人間創造の御目的であり、また人間の人生の究極の目的でありました。それゆえ、人間創造時には早くも、ご自身の栄光を顕す存在となるようにとの大きく深い愛が、人間に注がれていたのです。何と言う驚くばかりの神の人間愛だったことでしょう。(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。