信仰生活の羅針盤(22)

峯野龍弘主管牧師

第10章 アガペー共同体である教会の祝福の鍵

②さて、「アガペー共同体である教会」の「第二の祝福の鍵」は、何でしょう。それは、「聖い心と交わり」です。前項では、それは、心合わせて祈る「一致の祈祷」であると申しましたが、これはお互いが「聖い心を持って交わる」ところに結果するものです。そこに集まって共に祈る個々人の内に、それぞれが自分勝手な、いわゆる自己中心の思いが宿っていたとするなら、そこには心を合わせて祈る「一致の祈り」が生まれるでしょうか。生まれるはずはありません。しかし、その一人一人の心の内に私心、欲心がなく、互いに相手のことを思い遣(や)り、何よりも神の御心を仰ぎ求めながら、心から神の祝福を祈り求めたとするならどうなるでしょう。そこには「強い愛の絆」と「聖い交わり」が生まれることでしょう。それはそこにいる一人一人の心が純心で聖いからです。ですから、「アガペー共同体としての教会の祝福の鍵」は、第二に「聖い心と交わり」なのです。これなくして祝福の扉を開くことは出来ません。しかし、これが備わっていたなら、簡単に祝福に至る「第二の扉」を開くことが出来ます。ですから、お互いは祝福を頂くために、この第二の鍵を手に入れようではありませんか。

③そこで第三番目の祝福の扉を開くための鍵は、何でしょう。それは「愛に満たされた心と生活」です。愛のあるところには、必ず美しい「祝福の花」が咲きます。しかし、愛のない所では、決して美しい「祝福の花」は咲きません。それどころか愛のない所では、憎しみや争い、妬みや恨み、高ぶりや卑下、怒りや偽り、裁きなどの自他ともに傷つけて止まない、醜い「呪いの茨」が生い茂るばかりです。どうしてそこに心安らかな祝福された交わりと生活が生まれるでしょうか。そんなことは断じてありません。「アガペー共同体である教会の祝福」は、私たちが「互いに愛し合う」ところに豊かに宿ります。ですから、主イエスは、「最後の晩餐」の時に、弟子たちを集めて互いに愛し合い、仕え合うために自ら模範を示され、弟子たちの「足を洗い」、そして彼らに「新しい戒め」を示されました。そして、こう言われたのです。「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」(ヨハネ13:34~35)と。ですから、かつては厳しい律法主義者であった使徒パウロも、遂には「全き愛の主」であるキリストに倣って、「最高峰の愛の宣証者」となって、彼の記したすべての書簡を通して随所で、「キリストの愛」と「キリスト者の愛の心と生活」について書き綴ったのでした。なぜなら。彼は「愛の心と生活」こそが、「アガペー共同体である教会の祝福」の扉を開くための「黄金の鍵」であることに、誰よりも深く、強く気付いたからでした。ですから、彼は、こう祈りました。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださいますように。…あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。」(エフェソ3:16~19)とエフェソ教会の信徒たちの「愛の心と生活」の充実を祈ったのでした。これこそが、祝福の扉を開くために重要な「第三の鍵」の鍵であることを、彼が知っていたからでした。だから私たちもこの「第三の鍵」を、しっかりと手に入れようではありませんか!(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。