信仰生活の羅針盤(16)

峯野龍弘主管牧師

第8章 主イエスの愛と恵みに生きる者が見上げる逆説的恩寵(おんちょう)

<前回に続く>

Ⅲ. 見えない人が見、見えるが見えないと言う逆説的な恩寵

また次に目の見えない人が見え、見える人が全く見ることが出来ないと言う、極めて滑稽(こっけい)な逆説的真理について記してみましょう。

愛兄姉方は、ヨハネの黙示録において、筆者のヨハネは、生温くなっていたラオディキアの教会の人々に向かって、こう書き送った言葉をご存じでしょう。「あなたは、『私は裕福で、満ち足りており、何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。豊かになるように、火で精錬された金を私から買うがよい。自分の裸の恥をさらさないように、身にまとう白い衣を買い、また、見えるようになるために目に塗る薬を買うがよい。」(黙3:17~18)と。

これは自分では信仰が厚く、熱心であると思い込み、その実、すっかりその信仰が生温くなり、熱くも冷たくもなく、いつしかマンネリ化してしまっている惰性的、習慣化してしまっているキリスト者への警告的指摘の言葉です。ところが、このようなキリスト者に限って、自負心だけが強く、自分たちは信仰年限も長く、聖書知識も豊かで、何一つ欠けたところがないと自認しがちです。その結果、いつしか見るべきものを見落とし、当然弁(わきま)え知るべきはずのことを弁えず、未信者でも気づくような大切な点を、見過ごしてしまう過ちに陥ることもあるのです。ですから、常に自負心や惰性的信仰によるマンネリ化を警戒しようではありませんか。

ところで、ヨハネ福音書の第9章に出て来る「生まれつき目の見えなかった人」の癒しの記事に、よくよく目と心を留めてみようではありませんか。主イエス・キリストは、道すがら一人の生まれつき目の見えなかった人に気付かれました。弟子たちもこの人に目を止め、主イエスに次のような質問をしました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」(同2)と。しかし、主イエスは、こう答えられたのです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(同3)と。

そこでこう言われた主イエスは、即座に、地面に唾し、土をこねてそれをこの人の目に塗られ「シロアムの池」に行って洗うように命じられました。そのようにすると、何とこの人の目が見事に癒されたのでした。これを見た人々は驚き、この人が本当にあの生まれつき目の見えなかった人と同一人物とは思えず、半信半疑で論議していると、そこにファリサイ派の人々がやって来て、それは何かの間違えか、だましごとに違いないと思い、彼を問い詰めました。しかも、その日が安息日であったので、彼らの常識からすれば、安息日に如何なる者と言えども、そのような行為は禁じられていたこともあって、それは律法違反であって、断じて赦し難いことでした。そこで彼らは何度も彼に問いただすのですが,この生まれつき目の見えなかった人は、その都度、それが真実であることを証言しました。そこでファリサイ派の人々は、彼の両親をも呼びだして尋問したのでしたが、両親たちは、彼らを恐れて、これは確かに自分たちの息子ではあるが、どうして良くなったのかは本人に確かめてほしいと答えたのでした(同20~21)。

そこで再度、その息子を呼び出して、「神の前で正直に答えなさい。私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ。」(同24)と問い詰めると。彼は次のような明解にして、あっぱれな回答をしました。

「なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」(同27)、「あの方が罪人かどうか、私には分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです。」(同25)、「あの方がどこから来られたか、ご存じないとは、実に不思議です。あの方は、私の目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、私たちは承知しています。しかし、神を敬い、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならないはずです。」(同30~33)と。

何とも痛快なこの人の名回答ではありませんか。この生まれつきの目の見えない人とファリサイ派の人々とのやり取りを見ていると、そこには皮肉なほどに明白に、立場の逆転が起っていることに気付かされます。

第一に、当然目の見えるファリサイ派の人々には、この人の目が癒されたことと、この人を癒した主イエスが偉大な癒し主であることを見届得たはずなのに、彼らにはそれを認めることが出来ず、目の見えなかったこの人には、はっきりとそれを見届けることが出来たと言うこと。

第二は、目の見えなかったこの人は、主イエスが神から遣わされたお方であり、真の癒し主であることを確信できたのに、目の見える、しかも宗教家であったファリサイ人たちが、主イエスを神から遣わされた癒し主と認め得ず、何と罪人としてしか認め得なかったこと。

何と言う逆転でしょう。その理由は、明白でした。第一に、ファリサイ派の人々には、伝統的な宗教的先入観があったからです。第二は、彼らには強い自負心と誇り、そして邪悪な野心があったからです。第三に、彼らには、自分たちよりもはるかに優れた御業をなさる主イエスに対する強い妬みと憎しみが沸き上がっていたからです。

このゆえに、彼らの心の目、霊の目が塞がれてしまい、見るべきものを見ることが出来ず、霊的盲目状態を生み出してしまっていたのです。しかし、生まれつき目の見えなかった人は、心から癒しを求め、神の御業を待ち望んでいたので、彼は神の栄光を見、主イエスを真の神、癒し主として仰ぎ見ることが出来たのでした。そして彼は、神の絶大な恩寵に与ることが出来たのでした。そこでお互いは、今ここに「目の見えない者が見、目の見える者が見ることの出来なかった逆説的恩寵の真理を、鮮やかに見せられたのでした。それにしても、間違った先入観、自負心、誇り、邪悪な野心、妬み、憎しみの何と恐ろしいことよ。これらによってお互いは真に見るべきものが見えなくなってしまうのですから、よくよく注意しようではありませんか。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。