信仰生活の羅針盤(11)

峯野龍弘主管牧師

第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう))

◆前回の要点

Ⅱ. 聖められなければならない「我欲」の齎(もたら)す諸問題
①名誉欲と妬(ねた)み
②金銭欲と所有欲
③行き過ぎた食欲
④性的欲望

Ⅲ. 聖めの恵みに与る道-聖めに至る諸行程-

では、お互いは如何にしたら「聖めの恵み」に、与ることが出来るのでしょうか。そこで聖めの恵みを領有するための諸行程を学んでみましょう。

① 内住の罪の悔い改めと告白

まず第一の行程(ステップ)は、何と言っても「内住の罪」の「悔い改めと告白」です。しかもこれは、明確に徹底してなされることが必要です。これはあくまでもお互い人間の側から、神に向かって明確になされなければならない人間の条件です。しかし、この「内住の罪」に対する深い認識は、お互い人間自身によっては成し得ない事柄です。なぜならお互いは、既に長い間サタンの支配下にあって、そのような深い罪の認識が出来ない者とされてしまっていたのです。しかし、愛と憐れみに富める神は、そのような中からお互いを救い出し、聖めるために聖霊の導きの許(もと)に、徐々に、時には鮮やかにお互いの内にあるその深い罪に気付かせ、その罪に悩むように導いて下さるのです。これはまさに人間の知恵や努力によるものではなく、主の憐れみと恵みによる神の御業によるものなのです。この神の憐れみと恵みによる「深い罪の認識」は、通常、すでにキリスト者となり、ある程度、信仰生活をはじめ、忠実に礼拝を守り、御言葉を学び、祈るようになったまじめな信仰者の心の内に起こるものです。いい加減な信仰生活を送っている人々の内には、容易に起こることがありません。しかし、まじめなキリスト者の内には、信仰が深まれば深まるほど、御言葉の光が心の奥底に届くようになって、通常の外見的罪認識ではなく、心の奥底にある「内住の罪」―これを「罪の根」とか「本質的罪」と呼ぶ―に気付かされて来るのです。そこへ霊魂に深い渇望が起り、この「内住の罪」からの「解放と聖め」を、切に祈り求め始めるのです。それが使徒パウロが主のみ前に叫んだ「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:20,24)と言う叫びとなったのでした。これこそが「深い罪の認識」であり、「内住の罪」からの「全き解放と聖め」を渇望する者の「罪の根」に対する「根源的罪認識」なのです。実に、この聖霊の導きとお取り扱いの中での「葛藤と苦悩」の中から、心の内に立ち上がって来た「深い罪認識」こそが、聖めの恵みに与るための第一ステップとなるのです。そしてこのキリスト者の内に沸き起ってきた明確な「全き罪の悔い改めと告白」こそが、極めて重要なのです。この罪の悔い改めと告白は、未信者からキリスト者となるために最初に為(な)した一般的な「いわゆる罪の悔い改めと告白」とは、全く異なる深い次元の「キリスト者の罪の悔い改めと告白」なのです。

果たして愛する兄弟姉妹は、このような「深い罪の認識」と「全き罪の悔い改めと告白」を体験し、真に「聖められたキリスト者生活」を歩んでいるでしょうか?(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。