信仰生活の羅針盤(12)

峯野龍弘主管牧師

第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう))

◆前回の要点

Ⅲ. 聖めの恵みに与る道-聖めに至る諸行程-
①内住の罪の悔い改めと告白

②罪の明け渡しと自己の全存在の奉献(ほうけん)

さて、「内住の罪の悔い改めとその告白」が明確にできたなら、その心をしっかりと抱いて、次のステップに進むことが必要です。それは、主イエスに対する「罪の明け渡しと自己の全存在の奉献」です。このことは、古くから諸先輩たちにより、「罪の磔殺(たくさつ)と全き献身」と言われてきた事柄です。つまり、「内住の罪」を明確に認め、それを心から深く悔い改め、神と人の前に告白すると言うことは、その罪をいつまでも自分の内に留めて置かず、その罪の心と生活を根こそぎ取り除いていただくために、主に明け渡すのです。なぜなら、罪の力と性質、そしてその支配は、強力でしつこく、せっかく罪を認め、悔い改めたのにも関わらず、そのままお互いの心中に居座ろうとするからです。お互いにはその罪を認め、悔い改めることまでは出来るのですが、それを駆逐することはできないのです。それを取り除くことが出来るお方は、主ご自身です。そこで次にお互いの成すべきことは、その主ご自身にその罪の力と性質、そしてその支配から解放していただくために、お互い自身の罪に支配されてきた全存在を主に明け渡し、献げてしまうのです。そうしない限り、せっかく罪を認め、悔い改めたにもかかわらず、またしても時間が経つに従って、取り除かれていない罪の根が生えだして、再び罪を犯すようになってしまうからです。そこで自己の全存在と共に、長い間罪に支配されてきた自分自身の心と体と生活を、いや全生涯をもすべて丸ごと主に明け渡し、献げてしまうのです。あたかも「罪と言う名の悪王」と共に過ごして来た「我城」を、「主イエス・キリストと言う名の聖なる王」に明け渡し、奉献し、そこを「聖なる主の王宮」として占有し、新たに用いて頂くのです。これが「罪の明け渡しと自己の全存在の奉献」と言うことです。この時、お互いは、「古き罪に支配されていた自分」が、キリストと共に十字架に釘づけられて死んで、新たにキリストが内住される、新しく造り変えられた、「聖められた神の神殿としての新しい自分」として甦るのです。これを「罪と自我の磔殺と全き献身」とも言うのです。ですから使徒パウロは、こう勧告したのでした。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:1~2)と。更にまたこうも記しています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリ6:19~20)と。何と言う、素晴らしく光栄なことでしょうか。

③み言葉の約束の既成就(きじょうじゅ)を確信し、ひたすら委ねて歩む

そこで最後に大切なことは、このようなステップを踏んで、お互いが明確に「罪の明け渡しと自己の全存在の奉献」をしたとするならば、その瞬間から時を移さずして、お互いは主に全く献げられた「神の神殿」とされたのですから、その後は、ただひたすらそこに内住される主ご自身、つまり「内住される聖霊」ご自身に自らをいっさい委ね切り、その折、その時々の聖霊の導きと主の御心に従って、歩み続けて行くことです。この場合、極めて重要なことは、「罪の明け渡しと自己の全き奉献」をした者の内には、必ずその瞬間から主ご自身が内住され、お互いが「神の神殿」とされると言う「主の御言葉の約束」を固く信じると言うことです。すなわち、「罪の明け渡しと自己の全存在の奉献」をするのは、あくまでもお互い人間自身がなさなければならない人間の意志と行為によるものですが、しかし、そのお互いが「神に献げられた神殿」、「聖霊が宿ってくださる神殿」となるのは、神ご自身の御業であって、ただ主の恵みであり、主の御言葉の約束の成就以外ではないのです。それゆえに、人間の側からの「罪の明け渡しと自己の全存在の奉献」が明確になされたとするならば、その瞬間から神の側からの御言葉の約束の成就としての「神の神殿」、「聖霊の宿ってくださる神殿」となると言う「神の御業の既成就」がそこに到来していることを確信してよいのです。いや確信しなければならないのです。そしてこの既成就の確信の上に立って、その後はひたすら聖霊の導きに身と心を委ねて、日々従って、歩み続けるところに「聖霊に満たされ聖められたキリスト者生活」が実現するのです。この状態を「キリスト者の聖め体験」とか、「内住のキリスト、もしくは聖霊体験」などとも呼んでいるのです。

かくしてお互いの生涯上の「聖めの恵み」(聖化の恩寵体験)が実現するのです。愛兄姉方、果たしてあなたは、この恵みに与っておられますか。もしそうでないとするならば、是非、これらのスッテプを辿り、一日でも早くその恵みに与って下さい。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。