自画像に悩む(2)

峯野龍弘牧師

Ⅰ,人は何ゆえ「自画像」を愛せないのか

前回申し上げたいわゆる「自画像」を、多くの人は何ゆえ愛せないのでしょうか。その理由についてまずお話しましょう。それには概ね以下のような理由-いや原因と言った方が良いかも知れません-があります。

1,自分と他者を見比べること

自画像を愛せない第一の理由は、自分と他者を見比べることにあります。もう少し厳密に言えば、見比べること自体は決して罪でも、過ちでもないのですが、そこにひとつの価値観を持ち込み評価し、その結果他者を非難し、己を誇ったり、その反対に他者を羨み、自ら卑屈になったりするところに、大きな誤りが潜んでいるのです。

この人間の過ちは、いつから始まったのでしょう。それはアダムとエバが創造主の御心に背き、罪を犯し、堕落した時から始まりました。旧約聖書の創世記を見ますと、そもそも人間はお互いの違い性をこよなく愛し、互いに受け容れ合い、むしろその違い性のゆえに相互に相手を自らにとって最も必要な大切な存在として認め、尊び合う事が出来たのです。すなわちアダムとエバ、つまり男と女、助けられる必要のある夫と助けるべき立場にある妻といういかにも対照的な違い性を持った二人の存在が、神の創造の御旨に従って見事に調和し、愛し合うことが出来たのでした。

しかし、そのアダムとエバが神の御心に背き、罪を犯してしまった堕落以後は、果たしてどうなったと思いますか。悲しいかな何と彼らの息子であるカインとアベルは、相互の違い性を見比べ合い、兄カインは弟アベルを妬み、羨み、遂にアベルを殺害してしまったのです。兄カインは、弟と自分の違い性を見比べ、自分の「自画像」を卑屈にも愛することが出来ず、遂に弟を受容できず抹殺してしまったのです。ここに見比べ合う人生の悲劇が怒ってしまったわけです。

おお、愛兄姉方よ、自分と茶者を見比べ合う人生を送っていませんか。

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 峯野龍弘(みねの・たつひろ)

 1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

 この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

 主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。