「リワインド~和解の条件」(2025年8月10日平和聖日説教)ルカ15:20-31
放蕩息子のたとえは、数多くの主イエスの興味深いたとえ話の中でも最も長く、興味深いものと言っても良いでしょう。誰でも共感できる親子の関係に加えて、兄弟の関係がそこにあります。私たちがみな求める「救い」とは何でしょうか。病の癒しのようでもあり、天国という場所への移動という風に考える場合もあります。しかし、本質的に救いは和解、仲直り、壊れた関係の修復です。私たちを一番悩ませ、また一番喜ばせるのも様々な人との関係です。今月は平和を考える月です。平和とは、国と国、社会と社会、集団と集団の中で作り上げ、守るものですが、最後は、一人と一人の関係の問題です。今日、世界の秩序は大きく変わりつつあります。それを理解して予測することは困難なことです。しかし、イエス様が語る親密な家族関係の和解に平和の答えがあります。
まず次男に注目しましょう。たぶん10代後半だと思います。当時のユダヤ社会において、次男は兄の半分の遺産権を持っていました。彼はそれを先に求めます。父親は、その大変親不孝な願いを聞き入れてあげます。「父親は二人に身代を分けてやった」(12節)。「身代」という言葉は、命という言葉に由来します。この次男の中に罪人の本質が現れます。神との関係は拒み、その命の様な恩恵だけを求める姿。神は要らないが、祝福だけもらいたい。そして次男は、遠い国に旅立ちます。父の目の届かぬところへ。
「そこで身を持ち崩して財産を無駄遣いしてしまった」(13節)。ここに罪の本質が現れます。神が造られたものは全て良いです。罪とは、その良いものの無駄遣い、破壊、歪曲です。罪は、本質的にもったいないことなのです。
身代、命を使い果たしたときに飢饉が訪れました。ユダヤ人は豚を汚れた生き物と思い、食べるどころか触れることも嫌がりました。次男は、そのような豚の世話をしながら食いつなぎました。豚の餌さえも食べたいと思う、豚以下の身分に落ちぶれてしまいました。それ以上に落ちるところのない低い所。神との関係を拒んだ罪人が行き着くところです。完全に道を失った存在。それが私たちの姿ではないでしょうか。それに気づき、認めること、それが和解、回復の第一歩です。「我に返って」(17節)。父に戻ろうと次男は決心します。謝罪の言葉まで考えます(18-19節)。何の言い訳もしません。息子としての権利の主張もありません。ただ父の憐みを願います。和解の道は、悔い改めの他にありません。平和の道は、悔い改めを通る道です。
父親の素早い行動を注目してみてください(20節)。息子を先に見つけて、憐れに思います。憐みは、ルカ福音書に度々記されるイエス様の心です。父親は、息子の悔い改めの言葉を最後まで聞きません(21節)。「雇い人の一人にしてください」という言葉を遮るかのように、すぐに息子の資格を回復してあげます。悔い改めの心、その素振りだけでも心動かされる父なる神の姿がここにあります。そして宴会が開かれます。イエス様は、神の国をいつも宴会でたとえられました。神の御国は、和解の宴だからです。
このとき、長男は外にいました。弟と兄の距離が逆転しました。外にいた弟は中へ、中にいた兄は外にいます。兄は、怒って家に入ろうとしません(28節)。「音楽」symphoniaという言葉は、文字通り音のハーモニーを意味します(25節)。兄は、喜ぶ父と他の人々と同じ心を持つことを拒みます。この兄も、彼のようなファイリサイ派の人々も弟と同じ罪人なのです。父と和解されていないからです。長男の言い分を父親は聞いてあげます(29-30節)。本当に長男は父親に一度も背いたことがなかったでしょうか。父親は、長男に子山羊一匹すらあげなかったでしょうか。父親は兄にも身代を分けてあげました。長男は、自分の弟を「あなたのあの息子」と呼び、自分の弟であることを認めず、関係を認めようとしません。
父親は、このような長男にも恵みを与えます。「私のものは全部お前のものだ」(31節)。果たして、長男にそのような資格があるでしょうか。心では父を恨み、弟を羨ましいと思っていなかったでしょうか。父が中心に立ち、兄と弟が和解する用意が整いました。主イエスを通して父なる神様に和解されるとき、私たちの全ての関係が和解されます。これが平和の答えです。教会は、その和解を実践する最先端の現場です。だから躓きも、失望もあります。しかし、諦めません。ここが平和を作り、守る、戦いの場です。
どうやってお父さんに戻ることができるでしょうか。私たちは、自ら悔い改める力さえも失ってしまいました。道すらも分かりません。「死んでいたのに生き返った」(32節)息子は主イエスご自身ではないでしょうか。神のただ一人の息子です。主イエスの中で、主イエスを通して、私たちは父なる神に戻り、悔い改め、和解されます。キリストこそ和解の道、平和の道です。
淀橋教会主管牧師 金 聖燮

