信仰生活の羅針盤(15)
峯野龍弘主管牧師 第8章 主イエスの愛と恵みに生きる者が見上げる逆説的恩寵(おんちょう) <前回に続く> Ⅱ. 低いものが高められ、高いものが低くされる逆説的な恩寵 次に、低いものが高くされ、高いものが低くされると言う逆説的恩寵について述べてみましょう。主イエスは、ある時、ご自身のみ許を訪ねてきたゼベダイの二人の息子とその母親に対して、こう言われたことがありました。「あなたがたも知っているように
峯野龍弘主管牧師 第8章 主イエスの愛と恵みに生きる者が見上げる逆説的恩寵(おんちょう) <前回に続く> Ⅱ. 低いものが高められ、高いものが低くされる逆説的な恩寵 次に、低いものが高くされ、高いものが低くされると言う逆説的恩寵について述べてみましょう。主イエスは、ある時、ご自身のみ許を訪ねてきたゼベダイの二人の息子とその母親に対して、こう言われたことがありました。「あなたがたも知っているように
峯野龍弘主管牧師 第8章 主イエスの愛と恵みに生きる者が見上げる逆説的恩寵(おんちょう) 主イエスの愛と恵みの中で、日々生かされているお互いには、逆説的恩寵を仰ぎ見て生きることが出来ます。何と言う恵み、何という喜び、何という感謝なことでしょう。世の人々の常識論から見るならば、まさに悲しみ、不幸、災いとしか思えないことも、お互いキリスト者は、主イエスのご愛と恵みの内を歩むことによって、それをも越え
峯野龍弘主管牧師 第7章 聖めの恵みに生かされて生きるキリスト者生涯の祝福 さて、聖めの恵みに与るには、如何にしたら良いのかについて、前章において共に学んできましたが、この聖めの恵みの内を歩むキリスト者生涯の如何に幸いであるかについて、次に記してみましょう。 Ⅰ. 聖めの恵みと絶えざる全き平安 「聖めの恵み」に与った者の心の内に宿る「平安の恵み」の何と幸いなことか。お互いは、「平安」であることを
峯野龍弘主管牧師 第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう)) ◆前回の要点 Ⅲ. 聖めの恵みに与る道-聖めに至る諸行程-①内住の罪の悔い改めと告白 ②罪の明け渡しと自己の全存在の奉献(ほうけん) さて、「内住の罪の悔い改めとその告白」が明確にできたなら、その心をしっかりと抱いて、次のステップに進むことが必要です。それは、主イエスに対する「罪の明け渡しと自己の全存在の奉献」です。このことは、古
峯野龍弘主管牧師 第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう)) ◆前回の要点 Ⅱ. 聖められなければならない「我欲」の齎(もたら)す諸問題①名誉欲と妬(ねた)み②金銭欲と所有欲③行き過ぎた食欲④性的欲望 Ⅲ. 聖めの恵みに与る道-聖めに至る諸行程- では、お互いは如何にしたら「聖めの恵み」に、与ることが出来るのでしょうか。そこで聖めの恵みを領有するための諸行程を学んでみましょう。 ① 内住の罪
峯野龍弘主管牧師 第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう)) ◆前回の要点 Ⅱ. 聖められなければならない「我欲」の齎(もたら)す諸問題①名誉欲と妬(ねた)み②金銭欲と所有欲③行き過ぎた食欲 Ⅱ. 聖められなければならない「我欲」の齎す諸問題(続き) ④性的欲望 第四に、「我欲」の齎す諸問題の中でも今一つ、極めて重要な問題があります。それが「性的欲望」から来る問題です。この「性」に関する人間
峯野龍弘主管牧師 第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう)) ◆前回の要点 Ⅱ. 聖められなければならない「我欲」の齎(もたら)す諸問題①名誉欲と妬(ねた)み②金銭欲と所有欲 Ⅱ. 聖められなければならない「我欲」の齎す諸問題(続き) ③行き過ぎた食欲 第三には、聖められなければならないキリスト者の諸問題には、「行き過ぎた食欲」と言う問題があります。当然のことながら、「食欲」そのものが悪いと
峯野龍弘主管牧師 第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう)) ◆前回の要点 Ⅰ. 聖められなければならない自己中心の罪の孕む諸問題①「自己中心の罪」を生み出している、その根源にある「我欲」と「我執」②「高慢」と「他者への裁き」を生み出す③「自己卑下」と「自己憐憫(れんびん)」を生み出す Ⅱ. 聖められなければならない「我欲」の齎す諸問題 キリスト者でありながら、なおその心の中に「我執」と共に
峯野龍弘主管牧師 第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう)) さて、ここで「聖化の恩寵」、つまり「聖めの恵み」と言うことについて学んでみましょう。このことは「充実したキリスト者生涯」を過ごすためには、極めて重要な学びであり、体験でなければなりません。しかし、残念なことですが、多くのキリスト者がこのことの重要性について気付いておらず、この恵みに与ることなく、人生を過ごしてしまっています。折角、
峯野龍弘主管牧師 第5章 信仰と行い キリスト者の間でよく「信仰か、行いか」と言う話題が交わされます。この場合によくよく注意しなければならないことは、「救いは信仰による」のであって、「行いによる」ものではないという「福音の真理」は、まさにその通りなのですが、しかし、このことは「行い」と言うことを、一切無視したり、軽視したりすることを意味しているのでは絶対ないと言うことです。時にはそのような短絡的