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信仰生活の羅針盤(8)

峯野龍弘主管牧師 第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう)) ◆前回の要点 Ⅰ. 聖められなければならない自己中心の罪の孕む諸問題①「自己中心の罪」を生み出している、その根源にある「我欲」と「我執」②「高慢」と「他者への裁き」を生み出す③「自己卑下」と「自己憐憫(れんびん)」を生み出す Ⅱ. 聖められなければならない「我欲」の齎す諸問題 キリスト者でありながら、なおその心の中に「我執」と共に

信仰生活の羅針盤(7)

峯野龍弘主管牧師 第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう)) さて、ここで「聖化の恩寵」、つまり「聖めの恵み」と言うことについて学んでみましょう。このことは「充実したキリスト者生涯」を過ごすためには、極めて重要な学びであり、体験でなければなりません。しかし、残念なことですが、多くのキリスト者がこのことの重要性について気付いておらず、この恵みに与ることなく、人生を過ごしてしまっています。折角、

信仰生活の羅針盤(6)

峯野龍弘主管牧師 第5章 信仰と行い キリスト者の間でよく「信仰か、行いか」と言う話題が交わされます。この場合によくよく注意しなければならないことは、「救いは信仰による」のであって、「行いによる」ものではないという「福音の真理」は、まさにその通りなのですが、しかし、このことは「行い」と言うことを、一切無視したり、軽視したりすることを意味しているのでは絶対ないと言うことです。時にはそのような短絡的

信仰生活の羅針盤(5)

峯野龍弘主管牧師 第4章 宣教と救霊愛 前章では、「地の塩、世の光」と言うことについて記しましたが、それは主イエス・キリストによってこの世に遣わされているキリスト者と教会の、果たさなければならない「尊い使命と責務」であると強調しました。しかし、キリスト者がこの世にあって果たさなければならないもう一つの重要な「尊い使命と任務」があります。それが「宣教と救霊」です。そこで先ず「宣教」について言及して

信仰生活の羅針盤(4)

峯野龍弘主管牧師 第3章 地の塩、世の光 Ⅱ、「世の光」であるとは さて、次にキリスト者が、「世の光」であるとは、どういう意味なのでしょうか。主イエスは、先の「地の塩」に続いて弟子たちに、「あなたがたは世の光である」と言われたのですが、これまた何と光栄なことでしょう。そもそも、お互いは「世の光」などと呼ばれるには、全くふさわしくない存在でしかなかった者なのに、キリスト者となったその瞬間からそのよ

信仰生活の羅針盤(3)

峯野龍弘主管牧師 第3章 地の塩、世の光 キリスト者は、「地の塩」。「世の光」です。何と言う光栄なことでしょう。主イエスが弟子たちに、こう言われました。「あなたがたは地の塩である。・・・あなたがたは世の光である」(マタイ5:13、14)と。そのように主は、ご自身を真の救い主と信じ仰ぎ見るお互い一人一人のキリスト者たちにも、同様に、「地の塩、世の光」と呼んで下さっているのです。なぜなら、言うまでも

信仰生活の羅針盤(2)

峯野龍弘主管牧師 第2章 傲慢と卑屈 神の恵みの中で心と霊魂の解放と自由を得ていない世の人々は、多くの場合、傲慢と卑屈、高慢と自己卑下の両極端の間を行き来する、振り子のような人生を余儀なくされています。しかし、たとえキリスト者と言えども、真に明確な救いと聖めの体験を得ていない人々においては、ほぼ同様なことが言えます。使徒パウロは、このようなキリスト者を「肉の人」とか、「ただの人」と呼んでいます(

信仰生活の羅針盤(1)

峯野龍弘主管牧師 第1章 旧約聖書の箴言に、「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(同19:21)とある。また「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(同16:9)。更にまた、「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。」(同20:24)ともある。 ある人々は、こうした真理を容易に認めようとはしない。それゆえ、自分の思

安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(25)

峯野龍弘牧師 第5章 主イエスの歩まれたアガペーの生涯の日々 Ⅴ. 十字架上ですべての罪人の罪を担われ、贖(あがない)となられた主イエス(続き) ■「ただ信じること」の奥義(前回に続く) ⑤主イエス・キリストの十字架が、自分の「罪と死と滅びの裁き」からの唯一の救いの道だと信じること。 以上に述べて来たたように、お互い人間は、一人残らずすべて神の聖前に罪を犯した「罪人」であることから、聖書

安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(24)

峯野龍弘牧師 第5章 主イエスの歩まれたアガペーの生涯の日々 Ⅴ. 十字架上ですべての罪人の罪を担われ、贖(あがない)となられた主イエス(続き) ■「ただ信じること」の奥義(前回に続く) ④お互い人間はすべて神の御前に罪人であることを認め、信じ受け入れること このことはお互い人間の理性と感情をもってしては、容易に受け入れ難いことでしょう。そもそも神の御存在を信じられず、神の御心が何である