安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(21)

峯野龍弘牧師

第5章 主イエスの歩まれたアガペーの生涯の日々

Ⅴ. 十字架上ですべての罪人の罪を担われ、贖(あがない)となられた主イエス(続き)

■「ただ信じること」の奥義

かくして主イエスは、お互い人間の罪を悉(ことごと)く担われ、その全人類の罪の身代わりに十字架にお付きになりました。さて、ここで「ただ信じる」と言うことが、何を意味しているのか熟考してみましょう。そこで先ず初めに、「ただ信じる」と言うことは、果たして「何を、どう信じる」ことなのでしょうか。多くのキリスト者は、これは説明しなくても、分かり切っていることだと思うか知れません。しかし、その意味は深いのです。

①第一に、それは肉眼では、認め知ることのできない天地万物の創造者であり、人間をも創造された、「全能なる神」の存在を「信じること」です。その「存在を信じる」と言うことは、その存在を「自分の意識の中に取り込み、受け容れる」と言うことを意味しています。そもそも人は、このような神の存在を意識したことがなく、全く知らなかったのです。しかし、この神の存在を知り、信じ、かつ体験した人々の明確な証しを聞き、何より聖書を通して、人間の長い歴史を通じて、この「神体験」をした無数の優れた人々の貴重な体験と証言記録を読み、学んで行くとき、不思議とその存在が「信じられるようになる」のです。それは、何故でしょう。

ⅰ.それは何よりも「神御自身が存在」されるからです。存在されるのに「信じられない」のは、信じる側のお互い人間が、まだ「信じられる」ほどまでに、成熟していないからです。しかし、神はそのようなお互い人間を愛し、多くの優れた証し人や、「神の言葉である聖書」を通して、成熟させて下さるのです。そして「神の存在」は、何ものも脅かすことの出来ない厳然(げんぜん)たる永遠の存在ですから、「求める者」は必ず出会うことが出来、「信じること」が 出来るようになるのです。それこそがまさに「神が存在される」ことの、厳然たる証拠です。創1:1、出3:14a (「ある」とは「存在する」意)

ⅱ.そして「聖書が神の言葉」であり、「神の霊感によって書かれた聖文書」だからです。この聖書は、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益」な「命の書」だからです。Ⅱテモテ3:16~17,黙21:27

ⅲ.それは神の命の霊である「聖霊」が存在し、お互いの霊と心と体に働きかけ、教え、導き、「信じられる」ようにして下さるからです。ですから主イエスご自身がこう言われたのです。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)。また「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(同16:13)と。ですからお互いは、決して焦ることなく、必ずその時が巡ってくることを、楽しみに待ち望んでいれば良いのです。しかし、それが待ち遠しいならば「しつように(しつっこく)頼み」(ルカ11:8)込み、「熱心に祈り求め」れば良いのです。そこで主イエスは、こう言われたのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:9~10、13)と。これは、主イエスの「御心」です。しかも、それは「強い激励」の言葉でもあります。のみならず、それは「約束」の言葉でもあり、そうしない者への「命令」の言葉でもあります。そのお言葉は、「真実」です。ですから、そのようにする者には、必ず応えて下さるのです。そこには微塵も「偽り」がありません。ですから「全き信頼」をもって、これを実行すべきです。その時、その「祈りと求め」が、見事に成就するのです。

②そこで第二は、何よりもベツレヘムの家畜を飼う洞穴で、処女マリヤを母として生まれ、またナザレの村の大工ヨセフを父として育った人間イエスを、実は、この方こそが旧約聖書で長い間、預言され、待望されて来た「真の救い主(メシア)」であり、「真の神の子」であったと「信じること」なのです。このことは人間お互いにとっては、「神の存在」を信じることにも遥かに優って、難しいことなのかもしれません。なぜならば、言うまでもなく、結婚していない、しかも性交渉の全くない「処女」から子供が生まれ、どう見ても単なる人間の子供以外の何ものでもなさそうなこの一人の人物が、「神の子」であり、「神御自身」であるなどと、いったい誰が信じることが出来るでしょうか。しかし、それなのにこの驚くばかりの出来事こそ、お互い人間にとって「信じるに値する」、また「信じるべき最大の奥義」なのです。どうしてなのでしょうか?(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。