安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(20)

峯野龍弘牧師

第5章 主イエスの歩まれたアガペーの生涯の日々

Ⅴ. 十字架上ですべての罪人の罪を担われ、贖(あがない)となられた主イエス

かくして主イエスは、お互い人間の罪を悉(ことごと)く担われ、その全人類の罪の身代わりに十字架にお付きになりました。この主イエスの十字架上での御苦しみを通して、お互いの罪は悉く赦され、お互いは義と聖と贖いを受け継ぐ者とされたのでした。ただし、この場合に重要なことは、主イエスが全人類の罪の贖いのために、天から下って来られその罪を贖うために十字架に架かられた神の御子であり、唯一の真の救い主であるということを信じると言うことです。そしてこの信じた者がその恵みに与ることが出来るからです。ですから使徒パウロは、こう記しています。

「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマ3:22~25)と。

何と言う主イエスの大きな贖罪(しょくざい)の愛(アガぺー)でしょうか。ここで言う「信じること」とか「信じる者」とは、この聖書に記され、使徒パウロによって語られた大いなる神の恵みによる「約束の御言葉」を、そのままそれにあやかって「心に受け入れる」ことを意味しています。疑ったり、ためらったりする必要は全くないのです。なぜならパウロは、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(1テモテ1:15)と言い、しかも更に「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(Ⅱテモテ3:16~17)とも記しています。

ちなみに、多くの人々は「ただ信じることによって義とされ、救われる」ことは、余りにも虫の良すぎる話だと言って、これをあざ笑います。しかし、それは大なる間違いです。なぜなら人間の犯した神の御前での罪は、決して人間の善行によって如何に功徳を積もうとも、それによって帳消しにされるほど安易なものではありません。先に記したように聖書は、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3:23)。のみならず「罪が支払う報酬は死」(ローマ6:23)なのです。実に厳かで、人間のなす善行・功徳程度で放免されるような、簡単なものではありません。

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(エフェソ2:10)と聖書に明記されているように、常時善い業をすることは当然のことであって、決してそれは過去の償いとはなり得ないのです。それは今なすべきこと以外ではないのです。ですから聖書の結論は、「人間の犯した神の御前での罪は、決して人間の善行では償いきれない」と言うことです。たとえこの世の裁判で無罪判決を受けたとしても、神の御前ではなお有罪なのです。ではいったいどうしたら良いのでしょう。そうです、人間には不可能なのです。しかし、神は罪を犯した人間をも深く愛しておられます。そこで神は特別な方法をもって人間の罪の赦しの道を備えられたのです。それが御子イエス・キリストの十字架による「贖罪の道」だったのです。この特別な恵みの道を通り、その「絶大な恩寵の宝庫の扉を開く鍵」として、人間に付与されたのが「ただ信じること」だったのです。そこでこの「ただ信じること」の奥義について、共に熟考してみましょう。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。