安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(2)

峯野龍弘牧師

第1章 主と共に歩む生涯への召命と献身

「主イエスと共に歩きましょう、どこまでも」というかわいらしい「こども聖歌」がありますね。ご存知でしょう。小僕も昔、日曜学校や子供会でご奉仕していた頃、子供たちと一緒に楽しく、よく歌いました。爾来(じらい)、時々何かの折にこのこども聖歌の文句が脳裏によみがえって来て、ひとり口ずさむことがあります。まことにその通りだと思います。お互いキリスト者は、生涯の最後の一息に至るまで、主イエスに追従し、主と共に歩み続けるべきです。いつどこで何が起ころうと起こるまいとにかかわらず終始主に追従し、共に歩んでこそ真の主の弟子、つまり真のキリスト者にふさわしいお互いであることが出来るわけです。

しかし、お互いは何としばしば主から離れ、独り歩きしたり、主以外の人や物に心惹かれて、主を見失ってしまうことでしょう。まさしくお互いは、迷いやすい「羊」のようです。それなのになおも主は私ども一人一人を深く愛し、遠く彼方に迷い出たお互いをどこまでも捜し求めて見出し、救い出して下さるお方です。何と言う深い主の御愛でしょう。たといお互いが罪を犯し、主の御許から離れたとしても、それでも主はお互い一人一人をなおも愛されて、御許に導き返し、共にいることを喜ばれるお方です。有名なルカの福音書15章の「見失った羊」のたとえ話の中で、主はその御自身の御思いを次のように披歴しているではありませんか。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(ルカ15:4~6)と。

これはお互い一人一人を愛して、どこまでも共にいることを喜ばれる主のお心を言い表している、素晴らしい聖句だと思います。このように主がわたしたち一人一人と、かくまでも「共にいる」ことをこの上なく喜んでくださっていることを知りながら、あえてその主の御許を離れて、自らの好みに任せて自分勝手の道に踏み込んで行くということが、いかに罪深く、主を悲しめてしまう事であるかを思う時、断じて「主と共に歩むこと」を止めてはならないのです。

そもそもキリスト者生涯というものは、「主と共に歩む生涯」への「召命と献身」によって成り立っています。例えばその最も典型的な模範と実例は、主の最初の弟子となったペトロとアンデレ兄弟です。彼らはガリラヤ湖上で網を打ち、漁をしていました。その時、突然主イエスが湖畔から彼らに呼びかけて、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)と言われたのでした。「わたしについて来なさい」と言ったこの言葉がけこそ、「主と共に歩む生涯への招き」つまり「召命」でした。それは「主イエスについて行くこと」つまり「主と共に歩むこと」により、「人間をとる漁師」すなわち「人間を救いに導くキリストの弟子」となることへのまさしく「召命」だったのです。

そこでこの「召命」に対してペトロとアンデレは、どのように応答したでしょうか。何と彼らは、その瞬間から「すぐに網を捨てて従った」(同20)のでした。これこそが主からの「召命」に対する彼らの応答としての「主への追従」つまり「献身」でした。まさにこの時が彼らの「主と共に歩む生涯への旅立ち」となったのでした。

しかし、この「主への追従」「献身」の道、すなわち「主と共に歩む生涯への旅路」は、平坦な道ではありませんでした。険しい山あり、谷ありの苦難の道でもありました。ですからある時、主イエスは彼らにこう言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(同16:24~25)と。

そうです。「主について行く道」つまり「主と共に歩む生涯」は、究極のところ愛と恵み、平安と喜び、勝利と栄光の満ち溢れた祝福への旅路であることは間違いありませんが、しかし、その途上には「自分の十字架を背負って」主イエスに追従し、歩んで行かなければならない苦難の茨道を突き進んで行かなければならない「献身」の道でもあるのです。

しかし、何と幸いなことでしょうか。「主について行く道」すなわち「主と共に歩む生涯」は、いうまでもなく「主が共におられる道」「主が共に歩まれる生涯」そのものなのですから。愛と恵みに満ちたもう全能者なる神が、お互いと共におられ、共に歩んでいて下さる限り、たとえどんなに耐えがたいと思われる逆境や試練があったとしても、主は必ず共にいてその中からお互いを救い出し、お守りくださるのです。

旧約聖書の時代のヨセフは、新約時代の恵みや聖霊による絶大な恩寵については、いまだ与り知らなかったにもかかわらず、生涯自らと共におられる神の恵みを疑わず、如何なる逆境・試練の只中にあっても神を信頼し、耐え忍びました。そのような彼に対して主は、常に彼と共におられ、生涯彼を守り、祝福されました。ですから聖書は、こう記しています。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。」(創39:2)。「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれた」(同23)と。

また主はヨシュアにもこう言われた。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ・・・うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア1:5、9)と。

ですからお互いキリスト者も、生涯変わらず、如何なる時も「主と共に歩む者」でありたいものです。 (続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。