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安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(25)

峯野龍弘牧師

第5章 主イエスの歩まれたアガペーの生涯の日々

Ⅴ. 十字架上ですべての罪人の罪を担われ、贖(あがない)となられた主イエス(続き)

■「ただ信じること」の奥義(前回に続く)

⑤主イエス・キリストの十字架が、自分の「罪と死と滅びの裁き」からの唯一の救いの道だと信じること。

以上に述べて来たたように、お互い人間は、一人残らずすべて神の聖前に罪を犯した「罪人」であることから、聖書はこのようなお互い人間の赦しと、その罪のゆえに支払わなければならなった罪の代償としての「裁き」、つまり「死と永遠の滅び」からの救いと解放のために、「驚くばかりの救済の道」を提示してくれているのです。それが神の御子、イエスキリストの「十字架の贖い」、つまり「贖罪の道」であるのです。

ちなみに、すでに先には聖書が、厳かに「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)と厳命していることについて記しました。のみならずまた、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)とも記されています。天地創造の初めにアダムとエバが、「エデンの園」において神の御心に背き、誘惑に負けて罪を犯してしまった時、神は悲しみの内に、やむなく彼らを「エデンの園」の外に追放しました(創3:23~24)。そもそも「エデンの園」の中で神と共に生きる彼らには、それまでは死も病も、苦しみも悲しみも、何よりも罪が一切ありませんでした。しかし、このアダムとエバの謀反のゆえに犯した罪のために、罪を犯した人間が、「罪なきエデンの園」の中に、罪を持ったまま永遠に生き続けることは断じて許されなかったのです。ですから、彼らは「エデンの園」から追放されたばかりか、その瞬間から彼らの中に「罪と死と滅びの裁き」が入り込んで来たのでした。それと同時に諸々の苦しみ、悲しみ、痛み、病、不幸が結果するようになりました。これこそがまさしく、人間の犯した罪に対する「神の裁き」の始まり、つまり「裁きの原点」となったのでした。この場合、「死」とは肉体の死と共に、霊魂の死をも意味していました。爾来(じらい)、神の御子、主イエス・キリストが、この世にお出でになり、十字架に架かり、全人類の罪の贖いのために身代わりとなって死んで、甦(よみがえ)って下さるまでは、人間にはこれらの裁きからの救いの道は、完全に閉ざされていたのでした。

ところが何と驚くばかりの恵みでしょうか。神は、その御自身の独り子、主イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、しかもその御子が全人類の罪の身代わりとなって十字架にお架かりになり、死んで甦って下さることによって、神と人間との間の「とりなし」となり、かつ人間の犯した「罪の代償」となり、その「罪の贖(あがな)いの御業」を成し遂げて下さったのです。「贖い」とは、「代価を支払って買い戻す」ことを意味するのですが、まさに、尊い神の御子イエス・キリストの命を代償として、神はお互い人間を「罪と死と滅びの裁き」から買い戻し、その罪を赦し、死と滅びの裁きの縄目から、解放して下さったのです。これを称して「贖罪の恩寵」などと呼びます。ですから聖書は、この「贖罪の恩寵(恵み)」について、次のように記しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。」(ヨハネ3:16~18a)と。

また、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマ3:23~25)と。

ですから、お互いが神の聖前に罪を赦され、義とされ、かつその死と滅びの裁きから解放されるためには、この驚くばかりの神の愛と恵みによってお互いのために成し遂げられた主イエス・キリストの「贖罪の恩寵」を、ただ信じればよいのです。つまり、「主イエス・キリストの十字架が、自分の罪と死と滅びの裁きからの唯一の救いの道」だと信じればよいのです。この驚くばかりの「贖罪の恩寵(恵み)」は、どこまでも人間を愛し、人間の罪を赦し、救いたいと願われる神の側からの一方的な愛と憐れみの御業であって、人間自身の側からの如何なる行為によっても、実現不可能なことを、神御自身が提示して下さった「絶大な恵み」、つまり「救いの恩寵」であったのでした。しかも、これは神の御心から出た「神の絶対的な約束」であって、お互い人間がこの神の愛による絶対的な約束を信じて、これを受け入れ、主の御心に立ち帰るならば、必ずその赦しと御救いに与ることが出来るように、道を開き、約束して下さったのでした。何と驚くばかりの恵みでしょうか!(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。