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安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(24)

峯野龍弘牧師

第5章 主イエスの歩まれたアガペーの生涯の日々

Ⅴ. 十字架上ですべての罪人の罪を担われ、贖(あがない)となられた主イエス(続き)

■「ただ信じること」の奥義(前回に続く)

④お互い人間はすべて神の御前に罪人であることを認め、信じ受け入れること

このことはお互い人間の理性と感情をもってしては、容易に受け入れ難いことでしょう。そもそも神の御存在を信じられず、神の御心が何であるのかを全く知らずに社会生活を送って来たお互いには、「罪」と言えば犯罪を犯したことを意味するのであって、そんなことは断じてした覚えもないので、それなのに「罪人」と言われたならば、さぞかし憤りを覚えることでしょう。また極めて良心的な人々の中には、自らが過去に犯した道徳・倫理的な過ちを謙虚に認めて、その意味において自分も「罪人」であると告白する人も、稀にはいることでしょう。しかし、聖書においては、そうではありません。すでに先にも記したように、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマ3:23)と断言しています。つまり、人間はすべて一人残らず、神の御前では「罪人」であり、「有罪」だと言うのです。そこで、このことを耳にし、読んだ良心的な人々は、きっとこう言うに違いありません。「自分がいつ神の御前で罪を犯したと言うのだ。自分は自らの良心に誓って断じて神に対して、罪など犯してはいない。そもそも自分は神の存在も知らず、神を信じていないのだから」と。ところが残念ながら、この「神を知らず、その存在を認めない」と言うこと自体が、聖書の述べる真理からすれば「罪」であり、しかも「罪の大本」であるのです。なぜなら聖書は、そもそも人間は、天地万物の創造者であり、全能者である偉大な「霊的御存在」である「神」によって創造された全被造物中の最高傑作であって、しかも唯一、聖なる偉大な霊的御存在である「神に似る者」として創造された、神と霊的・人格的交わりを持つことのできる尊い存在なのです(創1:1、26~27、28参照)。それゆえ人間は、目に見えない大いなる「霊的御存在」である神と交わり、語り合うことの出来る極めて尊い「神に似た存在」(「神と等しい存在」でなく)でもあるのです。ですから人間は、どこまでも創造者である聖き「神の御心」に従って生きる存在でもなければなりません。そこで、その創造者である神は、人間に付与された「自由意思」をもって、常に「神の御心」を読み取って、自由意思のない非人格的なロボットのようにではなく、自らの意思によって、主体的に「神の御心」を選択し、しかもそれに喜びを持って従順に従って生きてくれることを期待なさったのです。人間は充分それが出来る、「唯一の聖き存在」だったのです。ところが人間は、「自らの願望」を「神の御心」よりも優先し、「取って食べたい」と言う欲望を挑発する「蛇(サタン・悪魔)」の誘惑に屈して、遂に「神の御心」に背いて「大罪」を犯してしまったのです(創3:1~7参照)。聖書では、この「神の御心に背く事実」を「罪」と呼び、これが「罪の根源・本質」であって、教理的にはこれを「原罪」と言うのです。しかも、創造者である神が、「取って食べてはならない」と命じられたこの「神の御心」に背いて「罪」を犯した者は、創造当初には、神と共に生きる「永遠の命(不死の命)」を約束されていたのにもかかわらず、それを失い、「死」を受け継がなければならないと命じられていたのでした(創2:17)。これがまさに後世に使徒パウロが、厳(おごそ)かに「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)と言った所以です。

つまり、「罪の本質」は、あたかも人間の創造者である神の「聖き御心」と言う「聖なる軌道」の上を走るように造られた列車が、地上が「神の国」となるために、終着駅の「天国」に向かって走らずに、人間の欲望とサタンの誘惑によって、「人間の願望本位」の「罪の軌道」にポイントを切り替え、反対方向の地上を「地獄化」する「死と永遠の滅び」と言う終着駅に向かって走り出してしまったようなもので、ここに「罪の本質」があったのです。

ですから、神と神の御心を知らず、人間の意思だけに従って、その「願望本位」に生きる「人間中心」、更には「自己中心」に生きる生き方と、そこから派生するすべての生き方は、神の御前には罪を犯す生き方とならざるを得ないのです。

お分かりいただけたでしょうか。それゆえ人間は、すべて罪を犯した神の栄光を受けられない「罪人」なのです。しかし、主イエス・キリストは、この「罪の軌道」からお互い人間を、再び神の「聖き御心」と言う「聖なる軌道」に切り替えさせて下さる「救い主」として、この世に来て下さいました。それゆえ、お互いがこの救いに与り、「聖なる軌道」に立ち返るためには、どうしてもお互いがその前に、自ら「人間はすべて神の御前に罪人であることを認め、信じ受け入れる」ことが不可欠となるのです。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。