信仰生活の羅針盤(13)

峯野龍弘主管牧師

第7章 聖めの恵みに生かされて生きるキリスト者生涯の祝福

さて、聖めの恵みに与るには、如何にしたら良いのかについて、前章において共に学んできましたが、この聖めの恵みの内を歩むキリスト者生涯の如何に幸いであるかについて、次に記してみましょう。

Ⅰ. 聖めの恵みと絶えざる全き平安

「聖めの恵み」に与った者の心の内に宿る「平安の恵み」の何と幸いなことか。お互いは、「平安」であることを、誰もが望んでいます。しかし、その人が、しっかりとキリストに結ばれ、その心と生活が神と直結していないとするならば、その心と霊は、「神の御心」と自分をも含めて「人の思い」との間を行き来し、中途半端で不安定な状態にあり、決して神から与えられる「全き平安」を宿すことはできません。しかし、その人が「聖めの恵み」に与る時、その人の心の内には、常にキリストにある「全き平安」が宿ります。たとえその肉体は、病や様々な試練で悩まされることがあっても、不思議とその心と霊は乱されず、かえっていよいよ主に強く依り頼み、その心の奥底に「平安と安息」を持続することができるのです。これはお互いの信仰の強さによるものではなく、その者の内に宿っておられる「聖霊の恵み」によるのです。つまり、主に自己の一切を明け渡し、献げ、常に従順に主に従い続けている「聖められた者」の内にいます「内住のキリスト」の恵みとお働きによるものなのです。何と幸いなことでしょう。これはまさに「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(ゼカリヤ4:6)と主が言われた通りにです。

Ⅱ. 聖めの恵みと錬成(れんせい)された人間性の確立

「聖めの恵み」は、お互いをより優れる練達した人間性を有する者としてくれます。通常の人は、たとえキリスト者であったとしても、試練や逆境をただ悲しみ嘆くに違いありませんが、聖霊に満たされ「聖められた人」は、決してそうではありません。もちろん人間として、その痛みや苦しみをまともに味わい、ただいたずらに何も感じないと言うのではありません。痛み苦しみながらも、その中にあってよく祈り、神の御心を伺い、すべてを知り給う神が何故そのような試練や苦しみを受けることを御許しになったのかを熟考し、それを耐え忍ぶのです。なぜなら、神は堪えられないような試練を与えず、試練と共にそれに耐えられるように、逃れる道をも備えていて下さるお方であり(Ⅰコリ10:13)、のみならず、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を、そしてその希望は、決して失望に終わることのないことを知っているからです。しかも、聖霊によってお互いの内には、神の愛が豊か注がれていることを、確信しているからです(ローマ5:3~5)。更にまた、父なる神は、お互い神の子であるキリスト者を、「御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられる」(ヘブライ12:10)ために、試練を通して鍛錬(たんれん)して下さるのだと言うことを知っているからです。こうすることによって神はお互いを、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」(ヤコブ1:4)にしようとしておられるのです。ですから「聖められた人」は、より優れる練達した器としていいただくために、試練や様々な苦難を、より上級の「聖めの恵み」として甘受することができるのです。これまた何と驚くばかりの恵みでしょうか。それゆえヤコブは、試練を「この上ない喜びと思いなさい。…試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」(ヤコブ1:2,12)と言ったのです。

このようにしてお互いは、錬成された人間性を確立することができるのです。これまた「聖めの恵み」に他なりません。

Ⅲ. 聖めの恵みと純粋動機の人

さて、今一つ「聖めの恵み」は、お互いを「純粋動機の神の器・神の人」としてくれるということです。それはジョン・ウェスレーが、彼の書いた「キリスト者の完全」の冒頭で、「心の割礼」について記していますが、彼はそこで「聖められた人」は、「心に純粋性を有する者」となることについて語っています。それは、特に以下の二点において、混じりけのない純粋な生き方をなし、また生涯ひたすらその一筋道を貫き通す者となることを、意味していました。

第一は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして神を愛し、隣人を愛する」と言う点において純粋であると言うことです。すなわち、お互い「聖められた人」は、何事を成すにしろ、成さないにしろ、神と人への愛の純粋動機から行う者となると言うことです。

第二は、常にすべての事を「神の栄光のために、隣人の祝福のために」成すと言う点において純粋であることです。これまた何を成すにしろ、成さないにしろ、その動機が自己利益や自己目的のためではなく、それを越えて常に神の栄光と人々の祝福のためであると言う純粋動機を意味しています。

かくして、「聖めの恵み」は、お互いをこのような「純粋動機の人」として造り変えてくれるのです。これまた、何と幸いなことでしょう。これを「聖めの恵みに生かされて生きるキリスト者生涯の大いなる祝福」と呼びたいと思います。 (続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。