信仰生活の羅針盤(9)

峯野龍弘主管牧師

第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう))

◆前回の要点

Ⅱ. 聖められなければならない「我欲」の齎(もたら)す諸問題
①名誉欲と妬(ねた)み
②金銭欲と所有欲

Ⅱ. 聖められなければならない「我欲」の齎す諸問題(続き)

③行き過ぎた食欲

第三には、聖められなければならないキリスト者の諸問題には、「行き過ぎた食欲」と言う問題があります。当然のことながら、「食欲」そのものが悪いと言うのでは断じてありません。「食欲」そのものは、神が人間を創造された当初に、人間が生きて行くためにはなくてならない「生存本能」の一つとして、供えられたものでした。ですから「食欲」は、人間が健康であることのバロメーターとなります。「食欲」が失われて行けば病気となり、それを全く失えば、やがて死に至ります。「食欲」のあるということは、何と幸いなことでしよう。しかし、だからと言って食べることに「貪欲」になってはなりません。

「貪欲」とは、「度を越した欲望」、「行き過ぎた欲望」を意味します。これは「誘惑の源」となり、「罪の原因」となります。

そもそも人間の罪は、神によって創造された最初の人間、「アダムとエバ」が、神が取って「食べてはならない」(創世記2:17)と禁じられた「善悪の知識の木」の実を、「いかにもおいしそうで、目を引き付けられ」(同3:6)、取って食べてしまったことから始まりました。つまり、彼らは「食べたい」と言う「食欲」に駆られ、サタンの誘惑にそそのかされ、遂に「罪」を犯してしまったのでした。

ちなみに、「度を越えた欲望」、「行き過ぎた欲望」には、二種類のものがあります。その一つは、「してはならないと禁止されている限度を越える」場合と、「ただ自分の欲求・願望を満たすために行き過ぎる」場合とがあります。

まさにエバは、このいずれの過ちをも犯し、それにアダムも同調し、共に神の御心に背き、誘惑に陥り、罪を犯してしまったのでした。ともあれ、今日のお互いも「食欲」には、よくよく注意しなければなりません。神が人間に与えられた「生存本能」である良き「食欲」を、「食べてはならない」と禁じられていても、「食べたいから、おいしいから」と言って食べてしまったり、また際限なくむさぼり食べるようなことをして、健康を損ねたり、品位を失うようなことがあってはならないのです。のみならず、暴飲暴食のゆえに、また大食のゆえに家族や他人に不快の念を与えたり、食道楽、グルメのために必要以上に金銭を消費したりして、未信者の人々を躓かせたりしてはなりません。

キリスト者であるお互いの体は、神の栄光と人々の祝福のために用いるべき「聖霊の宮(神殿)」(Ⅰコリ6:19)です。ですから、使徒パウロは、「自分の体で、神の栄光を現しなさい」(同20)。また「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリ10:31)と言っています。

愛兄姉方よ、それゆえ良く「食欲」を制して健康管理し、「食べすぎず、食べなさすぎず」、いつも明るく元気に過ごそうではありませんか。そのために最もよい道は、常に聖霊に満たされ「聖められた心と生活」を保持することです。聖名の栄光のために、人々の祝福のために、そして「聖められたキリスト者生涯」を過ごすために!(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。