信仰生活の羅針盤(8)

峯野龍弘主管牧師

第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう))

◆前回の要点

Ⅰ. 聖められなければならない自己中心の罪の孕む諸問題
①「自己中心の罪」を生み出している、その根源にある「我欲」と「我執」
②「高慢」と「他者への裁き」を生み出す
③「自己卑下」と「自己憐憫(れんびん)」を生み出す

Ⅱ. 聖められなければならない「我欲」の齎す諸問題

キリスト者でありながら、なおその心の中に「我執」と共に「我欲」と呼ばれるべき、聖められていない「罪の根」があり、それが常に災いして自らの信仰生活をゆがめ、また他者と間でトラブルを生じ、のみならず当然のことながら神の栄光を現し得なくしている場合が、少なくありません。何としても「我欲」からの「聖めと解放」が、必要です。そこで今ここに「我欲」の齎(もたらす)す幾つかの典型的諸問題について、記しておきましょう。

①名誉欲と妬(ねた)み

まず第一は、「名誉欲と妬み」です。未信者時代のような露骨なものではありませんが、見かけは謙遜そうに見えますが、その実、心の中に自分と肩を並べる同僚などが、他者から高い評価を受け、よい立場を得る時、その心が穏やかではなくなり、それを心から祝福出来ず、妬ましく思うのです。なぜなら、その心の中に残存する「名誉欲」が、鎌首をもたげて、相手を「妬ましく」思わせるからです。何と悩ましい「名誉欲と妬み」でしょうか。

この「名誉欲と妬み」と言うことに関して言うならば、一つの恰好な例話を紹介しましょう。それは主イエスが、エルサレムに上って行かれようとしていた時の事でした。主は弟子たちを御許に呼び寄せ、重要な話をしている最中に、ゼベダイの息子ヤコブとヨハネが、母親と共に御許にやって来て、その母親が主イエスにこう言ったのです。主イエスが「王座に着かれる時、息子の一人は右の座に、もう一人は左の座に着かせてやってください」と懇望したのです。つまり、王座に就く主イエスの左右の名誉ある右大臣、左大臣の上座を息子たちに取らせてほしいと願い出たのでした。それを引き留めもせずに良しとして、母親に言わせていたヤコブとヨセフも、その名誉ある座を望んでいたからでした。ところがそれを聞いていた他の10人の弟子たち一同は、腹を立てたのでした。なぜなら彼らもまた、同様に上座を求めていたので、ヤコブとヨセフに妬みを覚えたからでした。約3年間も、主イエスに直接教えられ、学んで来たはずの彼らたちの心の内には、なおも依然として聖別されなければならなかった「名誉欲と妬み」が、聖められず残存していたのでした。何という嘆かわしいこと、何という醜態でしょうか。そこで主イエスは、即座に彼らにこう言われたのでした。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:26~27)と。

②金銭欲と所有欲

これまた未信者時代のように露骨なものではありませんが、意外に信仰歴も長く、熱心なキリスト者の中においてさえ、のみならず伝道者の中においてさえも、この点において聖別されなければならない人々がいるものです。例えば、信仰者としてそれはなくてもよさそうなものに執着して、それを所有したくて高価な買い物をし、その結果、主に毎月聖別して献げるべき月定献金を献げられなくなったり、欲しくて買いたい娯楽品を手に入れるために、心から感謝して献げなければならないはずの席上献金を惜しみ、その額を減らしたりする人々がいるそうですが、これは明らかに所有欲と金銭欲に支配されている一例です。およそすべての主に対する献げものは、その献げものの大小や多寡にかかわらず、常に自らの分に応じて、真心から主に対する感謝の念を込めて、惜しみなく献げるべきものなのです。不純な動機や見せかけの献金など、主は決して望まれず、喜ばれないのです。むしろ、そのような献金は、しないほうが良く、したことによって人目をごまかし、神を侮ることになり、その結果、むしろ思いがけない禍(わざわい)を自らの内に、引き込むことにさえなりかねないのです。ここにその悪しき典型的な実例があることを、御存じでしょうか。それは使徒言行録に登場してくるアナニアとサフィラ夫婦の事例です。彼らは、他の人々が次々と持ち物を売り払ってでも、神のみ前に喜びの献げものをしているのを知って、自分たちも所有していた土地を売り払って、献金しようとしました。ところがそれを献げる段になった時、彼らはそれを惜しみ、代金の一部をもって全部だと申告し、使徒たちの前に差し出したのです。するとペトロは、即座にそれを見破り「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒5:4)と厳しく叱責しました。その瞬間にアナニアは、倒れて息が絶えたのです。その2時間後、そこにいなかった妻サフィラが、ペトロの許にやってきたので、ペトロが彼女に彼女の夫アナニアが献げた献金は土地の代金の全部の値段かどうかと尋ねると、「はい、全部の値段です」と偽って答えました。その直後に、彼女も倒れて息が絶えたのでした。まことに恐ろしい厳かな実例です。ですから、キリスト者の内に残存し、支配している「金銭欲と所有欲」からの聖別が、何としても必要なのです。愛兄姉方よ、だからこの点においても決して侮ってはなりません。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。