信仰生活の羅針盤(6)

峯野龍弘主管牧師

第5章 信仰と行い

キリスト者の間でよく「信仰か、行いか」と言う話題が交わされます。この場合によくよく注意しなければならないことは、「救いは信仰による」のであって、「行いによる」ものではないという「福音の真理」は、まさにその通りなのですが、しかし、このことは「行い」と言うことを、一切無視したり、軽視したりすることを意味しているのでは絶対ないと言うことです。時にはそのような短絡的な考えを抱いている人がないわけではありません。そこで愛する兄弟姉妹方には、この「信仰と行い」について、しっかりと健全な理解を持ち、真に福音的な正しい信仰生活を、送っていただきたいものです。

Ⅰ. なぜ「信仰のみ」なのか

マルチン・ルターによる宗教改革が成し遂げられる以前までの中世のカトリック教会においては、人間の罪から救いは、「神の律法」、つまり「戒め」を全うするという人間の「行い」(行為)によるものと考えられてきました。ですからこれを「行為義認」と 呼びます。これは日本的な表現をすれば、「神仏の前に功徳を積めば、救われる」と言う教えと同様です。しかし、マルチン・ルターは、この考えに強い疑問を抱きました。それ以上にこの考え方のゆえに、長く苦しみ悩みました。彼は自分が罪深い人間であり、このままでは自分はやがてその犯した罪のゆえに神に裁かれ、滅びなければならないと恐れていました。そこで彼は、修道僧となって日夜、僧院の中で難行苦行を積み、罪の許しを神に祈り求めました。しかし、いかにそうしてみましても一向に罪の許しを確信できず、むしろ罪に過敏になるばかりで、罪の許しを確信することはできませんでした。ところがそのころ当時のカトリック教会では、世界各地の会堂建設がなされ、法王庁ではその建設費を集めるために「免罪符」と言うお札を発行し、それを購入した者は、その罪が許されると言う特例が定められたのでした。ルターは、このようなことで罪が許されるなどとは、到底信じられず、極度の苦悩の末、遂に使徒パウロがローマの信徒への手紙の中で「正しい者は信仰によって生きる(『義人は信仰によって生きる』口語訳)」(ローマ1:17)と記されている御言葉に出会い、突然、彼の霊の眼が開かれ、心に平安を勝ち取ることができました。それは、人間が神の御前で罪を許され、救いを受けるのは、その「行い」によるのではなく、ただ唯一、神の独り子イエス・キリストが全人類の罪のために十字架に釘づけられ、死んで甦り、義と聖と贖い(あがない)とになられたことを「信じる」信仰によると言うことを意味していました。そしてその愛と恵みによってのみ、人は罪が許され、救われるのであると言うことを意味していました。のみならず改めて彼は、使徒パウロの各書簡を深く学べば学ぶほど、人が神の御前で罪許され、義とされ、救われるのは、「律法の行いによるのではなく、ただ信仰による」ことであることが明確に強調されていることを知り、彼の心は全き安息を得ることが出来ました(ローマ3:20,22~26,28,30,4:3,5,ガラテヤ2:16,3:11、24,エフェソ2:4~9)。

かくして、ルターは毅然として立ち上がり、当時の教会の偽善を暴き、人が神のみ前にその罪を許され、救われるのは、「律法を行うからではなく、ただ罪からの全き贖い主イエス・キリストの十字架による罪の贖いを信じる信仰のみである」と言う絶大な恩寵を全面に掲げ、「行為義認」ではなく、「信仰義認」の恩寵こそが、「キリストによる真の福音」であることを公に宣言し、宗教改革の火ぶたを切ったのでした。これこそが聖書の開示する最大の真理であり、「福音中の福音」です。お互い誰ひとりでも、これに異論を唱える者があるならば、その人は誤りを犯す者となり、偽善者か異端者の道に転落せざるを得ません。

Ⅱ. 行き過ぎた恩寵主義と福音主義者の犯す誤解

しかし、この「信仰のみ」の絶大な恩寵と福音を正しく理解せず、過度に強調するあまり、「行き過ぎた恩寵主義と福音主義」の道に陥る危険があるのです。これにはよくよく注意する必要があります。それは「信仰さえあれば、もはや一切の行いは重要視する必要はなく、それを重要視するのは、再び律法主義に転落することである」と考えることによってです。このように考えて生きる時、いつしかキリスト者は、極めて怠惰な無責任な人間になってしまいます。極論すれば、「自分にはキリストを信じる信仰があるので、何をしようと、しまいと問題ではない。すべては主の愛と恵みのゆえに、万事最善となる」と言ういかにも信仰深そうな言い分ですが、ここには履き違えられた「行き過ぎた恩寵主義、福音主義」が、まかり通ってしまっています。換言すれば、キリストと主を信じる信仰を盾に取り、居直って怠惰を是認し、誤りを平然と繰り返すような、「居直り信仰者」が生み出されてしまっています。これでは世俗の偶像礼拝者のご利益信仰と変わりません。ここには、罪から救われて、新しく生まれ変わることが許された神の子としての、美しく聖い生き方は、一向に身に付きません。そこには「主の御心に適った正しい生き方」や「地の塩・世の光としてのキリスト者の愛の証の生活」も、一向に成り立ちません。果たしてこれがキリストにある「真の救い」を経験した者の、正しい歩み方、生き方でしょうか?断じてそうではありません。

「信仰のみ」、つまり「信仰義認」の恩寵は、あくまでも人間が罪許され救われるためには、いかなる「行い」も無効であって、そのためには、ただ主イエス・キリストの十字架の贖罪(しょくざい)の恩寵を信じて、全面的に主イエス・キリストに依り頼む「信仰のみ」が有効であることの福音的真理を明言したのであって、ひとたび罪許され、救われ、神の子として生まれ変わったキリスト者が、真に御心に適った正しい生活を成し、キリスト者として美しく聖く生きることによって、この世で愛の証を遂げて行くために、良き歩みを成すと言う、良き「行い」の不必要性を言ったものでは、断じてないのです。それどころか今まではお互いが、罪と不信仰のゆえに成し遂げ得なかった真の善事を、今度は主イエスのご愛と恵みと力を頂くことによって、かつ信仰と祈りをもってそれを成し遂げることができるように救い出され、新創造されたのであって、「救われるための行い」ではなく、「救われたがゆえに成すべき行い」に新たに主にあって召し出され、この世に遣わされた者こそが、「真のキリスト者」なのです。この極めて大切な要点を、すべてのキリスト者が正しく理解しておく必要があります。これを履き違えたり、行き過ぎた理解をすることによって、主の御心に背き、人々に躓きを与え、重大な過ちを犯してはならないのです。

Ⅲ. 救われた者の行いの必要性とその限界を越えた主の御業

そこで今やキリスト者であるお互いは、日々、その尊い救いと恵み、賜った絶大な恩寵と十字架の福音のゆえに、心から主に感謝を献げつつ、大きな喜びと光栄感をもって、良き証の生活に励もうではありませんか。主の御心に歩み、キリストの福音をすべての人々に宣べ伝え、証することは、すべてのキリスト者の使命であり,召命(しょうめい)です。こうすることによって主の聖名が崇められ、人々が救われ、祝福に与ることができるのです。これこそが主の御心であり、またお互いキリスト者が救われたことの尊い意味でもあり、目的でもあったのです。しかし、ここで最後にもう一つしっかりと理解しておくべき、重要なことがあります。それは当然のことながら、お互いキリスト者のなす「証や行い」には、おのずと限界があるということです。どんなに懸命に最善の証や行いをしたとしても、それが即、神の栄光や人々の救いや祝福に直結し、良き結果を生むということではないのです。キリスト者が日々、良き行いをもって神と人々に仕えることは、不可欠に重要なことではありますが、そのことが主の御心に適い、それを主が祝福し用いられ、主がそれを通して、そこにご自身の御業を成し遂げられるのでなければ、決してその良き業が目的を達成することはできないのです。しかし、仮にお互いの成した良き行為が不十分であっても、それが主の御心に適うことであるならば、主がそれをお喜びになり、主がそれを祝し、用いられ、主ご自身がそれを完成して下さるのです。ですから、誰一人として自分の成した良き「行い」を誇ってはならず、また嘆いたり、卑下したり、恥じたりしてはならないのです。すべては主の御業です。ですから「成したる業を、すべて主に委ね、主に献げてしまうこと」こそ、重要なのです。そこでお互いは、常に善き業に励みつつ、祈りの内にすべての業を、主に委ねることが大切です。その時にこそ、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知る」(ローマ8:28)ことになるのです。主の聖名を崇めましょう!(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。