愛による全面受容と心の癒しへの道(93)

峯野龍弘牧師

第6章 アガペーによるフォローアップ ―神の嘉される8原則―

Ⅳ、さて次に第四の原則に移りましょう。第四は、「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行に努める」ことです。

心傷つき病んでしまっているウルトラ良い子たちの内には、かなりの多くの子供たちが、自尊心を喪失しているばかりか、自分は見捨てられていると言ういわゆる「見捨てられ感」を強く抱いています。これは彼らの長い間に亘る過去の苦悩の旅路を通じて抱くに至った極度のコンプレックスによるものです。このコンプレックスから生じた「見捨てられ感」は、彼らの心の苛立ちと不安感を更に一段と増幅させてしまっています。

そこでこの「見捨てられ感」「コンプレックス」を取り除くためにも、のみならず何よりも彼らの「傷つき病んでしまった心」を癒すためにも、第四の原則を順守することが重要となります。それが「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行する」ことに努めることなのです。

そもそも今までに学んで来た「アガペーによる全面受容」の継続的実行により、彼らの傷つき病んでいた心が徐々に回復し、何よりも受容者である両親等に対する信頼関係も螺旋階段を上るように段々と増し加わって来ています。こうした段階でより重要な心がけが、「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行する」ことにより彼らの心にしっかりと寄り添い、また彼らの生活に密着して日々を分かち合うことなのです。こうすることによって彼らは、自らが深く愛され、受け入れられ、決して見捨てられることも、見放されることもないことを実感・体感して行くことが出来るからです。この「見捨てられることはない」「見放されることはない」と言うことを実感し、体感させると言うことほど、彼らの癒しにとって有効・有益なことは他にありません。彼らの長い間の苦悩の旅路を通して、彼らの心と体に浸み込んでしまった「不安感」「見捨てられ感」は、決して宥(なだ)めすかすような説得や説明では取り除くことも、癒すことも出来ません。しかし、この段階での「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行する」ことによって、彼らは見事にこの「不安感」「見捨てられ感」から解放されて行くことが出来るのです。

ちなみにここで「ひたすら共に身を置く」と記しましたが、勿論これは必ず日々24時間彼らと密着して共に過ごすと言うことを、意味しているわけではありません。そんなことは現実問題として不可能です。しかし、「ひたすら共に身を置く」思いをもって、「同心・同歩・同行」に努め、与うる限り共に過ごし、大切なことは「同じ心を持って」寄り添い、彼らの「ペースに合わせて」歩み、彼らの「行おうとするところに従って」共に進んで行くことに努める時、彼らはそこに以前には全く味わい得なかった自分の傷ついた心の痛みや苦しみが理解され、共感して貰えたと言う実感を味わうことが出来るようになるのです。その時、彼らの内に長く支配していた「不安感」「見捨てられ感」が払拭され、癒しがなお一層促進されるのです。

ところが多くの受容者は、この段階までにさしかかると、彼らが以前とは随分異なって穏やかさを取り戻して来たので、つい油断してしまい、「同心」・「同歩」・「同行」することを怠り、手抜きし、のみならず親である自分の思いを優先し、一歩先走ったり、出遅れたりして心の歩調を乱したり、彼らの行動に異論を唱えたりし易いのです。こうしたことは絶対に避けたいものです。なぜならいうまでもなく折角ここまで穏やかになり、癒しが促進されてきたことを、この段階で突き崩してしまうことになるからです。そこでこの段階でこそ第四の「ひたすら共に身を置き、同心・同歩・同行に努める」ことの必要性が大となるわけです。この点をよくよく留意して、悲しい失敗をしないで頂きたい心から念願するものです。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。

感謝、賞賛の言葉を豊かに注ぐ 自尊心の回復