愛による全面受容と心の癒しへの道(77)

峯野龍弘牧師

第5章 心傷つき病む子供たちの癒しへの道

III. アガペーによる全面受容の癒しの道

2) アガペーによる全面受容の癒しが成されるための具体的な道

■癒しへの具体的な道

⑮人間の本質と尊厳、また、わが子の存在価値とその使命とを疑わず信じ続けること。

さて、以上のように「アガペーによる全面受容の癒し」が、今まで正に心傷つき病んできたウルトラ良い子たちの身に成就するためには、具体的にはどうしたら良いのかと言うことについて、すでに14項目に亘り記述してきましたが、ここに今一つをあえて加えておきたいと思います。それは極めて基本的・根本的なことでもあり、また本質的な点でもあります。それは何かと申しますと本項に掲げた「人間の本質と尊厳、また、わが子の存在価値とその使命を決して疑わず、信じ続ける」という重要事です。これは大きく言って二重の大きな役割を果たしてくれます。

まず第一は、両親やケアーに当たる人々に対して大きな助けとなります。もしも、ケアーに当たる両親たちが悩めるわが子に対して、今やその存在価値を認めず、その子には人間として何の役割も果すことは出来ないのだと思い込んでしまっていたなら、どうしてそこに希望が立ち上がることが出来るでしょうか。ただ絶望あるのみです。だとすると、そこにあるのはただその先の日々に対する不安と悩みと悲しみがあるのみです。

のみならず、どうしてこのような子が生まれて来てしまったのだろうかとか、この先いつまでもこの子の面倒を見続け、しかも経済的にも肉体的にも様々な犠牲を強いられ、ともすれば自分たちまで病み患い、それこそ死ぬまで苦しみ続けなければならないのではなかろうかなどと、底知れぬ暗闇の中に引きずり込まれて行ってしまう他ないのです。

しかし、断じてその必要はないのです。ここで決定的に必要なのは世俗的価値観や人生観から結果する相対主義的常識的人間観ではなく、聖書などが指し示していてくれる永遠不変の真理に根差した絶対的超常識的価値観、人生観、人間観に立つことが必要です。この真理に立つならば、万物は本来神の聖き御心の内にあって創造された神の被造物であって、万物は皆、例外なく尊い価値ある意味ある存在であって、もし万物がその創造主の御心に従って生きかつ存在し続けたならば、すべてが有用かつ価値ある尊い存在であって、そこには何一つ有害無益なものはなかったのです。ましてをや人間は「神にかたどって(似る者として)」(旧約聖書創世記2:26~27)創造されたと記されているほど尊厳ある存在であったのです。ですから、世俗的価値観からすれば生まれながらにして肉体的に、あるいは精神的にハンディを負って生まれてきた人がいるとしたなら、世間では「気の毒な人」とか「不幸な人」、更には「前世の因果だ」、「たたりだ」などと噂することになるのですが、それこそこうした判断や評価をしかくだせないその人たちの方が、真に「気の毒な人々」と言うほかありません。このような世間の人々は、このような価値観に縛られているがゆえにこそ、自らと他者を共に不幸に定めてしまっていると言っても過言ではありません。

たとえば、スウェーデンの人でレーナ・マリアと言う方がいますが、この人は生まれた時にすでに両手片足がありませんでした。しかし、両親はこの子を深く愛し、しかもこの子を授かったことを心から神に感謝し、毎日喜びいっぱいにこの子を育て、極力その大きなハンディをハンディとも思わせないほど、健常人のすることは皆、取り組んでみました。その結果、大きくなるに従って自動車も自分で運転し、のみならずパラリンピックでは水泳の金メダリストとして何度も栄冠に輝き、また歌手としても世界を股にかけて活躍し、かの長野冬季オリンピックの開会式においては歌手として、あの一世を風靡した「ユー・レイズ・ミー・アップ」と言う歌を高らかに歌い上げ、万雷の拍手を浴びました。これがなんで「気の毒な人」、「不幸な人」、「生まれてこなければ良かった人」なのでしょう。むしろ、この大きなハンディのゆえに健常人に優る大きな感動と偉業を成し遂げ、神には栄光を、人々には破格の祝福をもたらしたのでした。もし、このレーナ・マリアさんに、このような大きなハンディを持って生まれてきたわが子を恥じ、悲しむのではなく、喜び、感謝し、尊ぶ両親がいなかったとしたら、どうなっていたことでしょう。そうです、人間を悲しみに突き落とし、不幸にしているのはハンディでなく、人間はすべて誰もが掛け替えなく素晴らしく、価値ある尊い存在であって、誰にも必ず意味ある人生、使命ある人生があるのだと確信して止まない高邁な人生観、すなわち、永遠不変の真理に根差した絶対的価値観、人間観が欠如しているからです。ですから、心傷つき病んでしまった子供たちを癒すためには、何としても両親たちが現状がいかようであろうとも人間である限り、人間の本質と尊厳をしっかりと見つめて、わが子の存在価値とその尊い使命のあることを固く信じて疑わず、ひたすら「アガペーによる全面受容」に努めることが大切なのです。

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。

感謝、賞賛の言葉を豊かに注ぐ 自尊心の回復