愛による全面受容と心の癒しへの道(66)

峯野龍弘牧師

第5章 心傷つき病む子供たちの癒しへの道

III. アガペーによる全面受容の癒しの道

2) アガペーによる全面受容の癒しが成されるための具体的な道

■癒しへの具体的な道(前回に続く)

①子供への謙遜にして真摯な謝罪と告白 加害者告白

②子供の要求を無条件で全面的に受容することによる和解と真摯な受容の証明

③どこまでも受容し続けなければならい不断の受容

➃ 決して子供の行動を規制せず、積極的に支援する覚悟と決断

⑤ “生産的積極的肯定”こそ受容の後押し

⑥ 決して是々非々を言わず、正論をもって抑圧せず

⑦ 断じて他者と比較せず、他者を非難しない

⑧「同心・同歩・同行」先走らず、遅れず、寄り添いながら

さて、これまた次によくよく心に留めなければならないことは、「同心、同歩、同行」と言うことです。換言すればこれは「決して先走らず、遅れず、ぴったりと寄り添いながら」ケアーするということです。これはアガペーによる全面受容による癒しを実現して行くために、絶対不可欠な心掛けであると共に、絶対的必要事なのです。

まず第1の「同心」と言うことについて言及すれば、心傷つき病んでしまっている者を癒してあげたいと思うなら、その人の「心」にしっかりと寄り添い、その人が思い、願い、したいと考えている、その反対にしたくないと考えていることをよく理解して、その「心」もしくは「思い」に自らの「心」と「思い」のメモリをぴったりと合わせてあげることが大切です。まさに「同じ心」、「同じ思い」となることが肝要です。ちなみに「同情」とか「憐れみ」と言う言葉がありますが、これらの言葉の原意は共に「同じ調べとなる」(同調する、調和する)と言う音楽的意味を持った言葉であるのですが、「同心」となるということは、まさしく心が「同じ調べを奏で」「調和する」ことを言うのです。この時心傷つき病める者の心が安息し、癒され始めるのです。

第2に、「同歩」「同行」と言うことですが、「同心」となった者は、その「同心」であることの「証拠」・「証明」として、どこまでもその心傷つき病める者と「共に歩み」、「行動を共に」しなければなりません。

今は亡き坂本九さんが歌い、一世を風靡したかの歌「幸せなら手を叩こう」の中に「態度で示そうよ」と言う歌詞が出てきますが、まさしく「心」と「思い」を一つにした者は、その行動、態度においてもその真実を実証しなければなりません。概して、これらの心傷つき病んだ人々は受容者がどれほど自分たちの心と思いを理解してくれたかを、その寄り添ってくれる態度や行動、生活によって確認したいという潜在願望を強く抱いているものです。しかも、彼らは自らの願っていることを実行しようとする場合に、しばしば自分一人でそれを成し遂げることに大きな不安を抱き、実行に移せず苦悩してしまうものです。そのような彼らにそっと寄り添いながらその行動を共にし、共に歩んであげることはどんなにか彼らを安心させ、勇気づけることになるかしれません。

ある著名な人が、「愛することは共にいることである」と言っていますが、自己犠牲を甘受して相手をどこまでも受容し続け「アガペー」するということは、共にいてこそ意味づくことであり、共にいることなくしてはまったく実現不可能です。「同行」と言うことは、単に行動を共にするという以上に共に身を置き、「共存」「共生」することを意味しています。悲しみも、喜びも共に分かち合い、賞賛を受ける時も、その反対に避難を浴びる時にも常に密着して離れず寄り添い続けるところに「同歩・同行」が実ります。これがアガペーによって全面受容するということであるのです。

更に第3に「先走らず、遅れず、寄り添いながら」と言うことですが、これは相手がそこまで意識や理解、思いや感情が届いていないにもかかわらず、それが相手の益となり、相手のために良いことだからと言って、相手に先走って行動してしまう時、これは「同心・同歩・同行」とはならず、その良かれと思って何したことが、何と相手の苛立ちをひき起こしたり、不安や恐怖心を呼び起こしたりして、かえって仇となってしまうのです。これはまさに大失敗です。その反対に相手が強く願望し、そうしたいと願っているにも関わらず、それはまだ早すぎるとか、それをしたならきっと失敗するだろうと考えて、相手の要求に沿うことを遅らせたり、とどめたりするならば、これまた「同心・同歩・同行」とはならず、相手の怒りや憤りをひき起こす結果となり、癒しには繋がらず、むしろますます事態を悪化させてしまうことになるでしょう。そこで何よりも大事なことは、「同心・同歩・同行」することによって、どこまでも相手に寄り添って同じ思いとなり、共に歩み、共に行動し、共に身を置いて人生を分かち合って生活し続けることなのです。その時、彼らは心安らかになり、行動しやすくなり、仮にもしそれで失敗したとしても、あくまでも自分の思い道理にしたのであって、それにもかかわらず自分に寄り添い続けてくれた受容者に申し訳なさと共に感謝の念を覚えて、より信頼と愛が増し加わることに至るでしょう。これこそが大切であって、良い結果がすぐに出るか出ないかは問題ではないのです。ですからあくまでも先走らず、出遅れず、相手の思いと行為に寄り添って「同心・同歩・同行」することが肝要なのです。このことの重要さを果たしてどれだけ理解していただけたでしょうか?(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。