「とこしえに主を讃美します」

■教会標語
「働き手を送ってください。私を用いてください。」
■教会聖句
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、
収穫の主に願いなさい。」 マタイ9:37~38

頌主寿春 2026年

2025年を締めくくり、2026年を迎えようとしている今、どのような思いでしょうか。悔いることもあれば、喜ぶこともあるでしょう。しかし、最後に残るのは、私たちの主なる神様に対する深い感謝、そしてそこから溢れ出る讃美ではないでしょうか。

詩編145編は、ダビデによって書かれた讃美です。150編に及ぶ詩編のクライマックスの始まりです。不思議にタイトルに「讃美」(テヒラ)という言葉が入る唯一の詩編でもあります。詩編の中に何と多くの言葉があるでしょうか。その終着点、その目的は讃美であるという宣言ではないでしょうか。この一年、全てを語り、全てを行った後、否定できない一番重要な事実があります。それは、主なる神様は私たちの讃美に相応しいお方だということです。

しかし、讃美とは何でしょうか。ただの言葉でしょうか。ただ空気の振動による音でしょうか、文字で書かれた印でしょうか。聖書にある讃美は、もっと実体のある何かだと思います。想像力を働かせて見るとき、讃美は時間と空間を越えて神様に出会う「宇宙船」だと言えます。2014年に公開されたSF映画「インターステラ―」をご覧になったことがあるでしょうか。地球がもう人間が住めなくなるほど破壊されてしまう近未来、人類は絶体絶命の危機に陥ります。未来の人類が現在の人類のために次元を超える構造物をブラックホールに設置して、そこに現在の人類を導きます。もちろんありえないような空想科学の話ですが、たとえそのような装置を持っても、神様に出会うことは出来ないでしょう。物理的な被造物とは異なる創造主だからです。しかし、讃美という不思議な行為を通して、私たちは次元を超え、創造主にお会い出来ます。この方自身が、肉なる世界に入って来られたからです。クリスマスの不思議です。

詩編145編はアルファベットによる詩です。各節の頭文字がヘブライ語のアルファベット順で進行します。覚えることに役立つ機能でもありますし、ヘブライ語で表現できる全ての音で神様を褒め称えたいダビデの思いを表しているようです。

ダビデは個人的に主を讃美します(1節)。ダビデ自身がイスラエルの王ですが、神様を「王よ」と呼びます。その王権は全ての時代、全ての被造物に及びます。ダビデは、この詩編でコールという「全て」を意味する言葉を17回も使っています。主は全てを治めるお方であり、全ての被造物は主を讃美するために存在します。個人的な讃美から始まり、ダビデは全ての人々がこの讃美に加わることを夢見ます(10節)。そこから更に進み、全ての肉なるものが讃美するビジョンを口にします(21節)。

その理由は、主がそのような讃美にふさわしいお方だからです。まずダビデは、主の御業を見よと言います(3-6節)。それは、私たちの理解を超え(4節)、驚きに満ち(5節)、恐るべき力を示します(6節)。しかし偉大な主は、私たちが近寄れないお方ではありません。むしろその偉大さゆえに私たちは大胆に主に近づくことが出来るのです。そしてダビデは、主の品格に注目します。主の深い恵みは、主の恐るべき御業が私たちの救いのためである保証です(7節)。でも主の心をどうやって知ることができるでしょうか。私たちは十字架を仰ぎ見ます。神様の恵みと慈しみの一番確かな証明がそこにあります。

ダビデは、もっと詳しく王なる神様の権威を讃美します(11-13節)。しかし世の王たちと異なり、この王は、私たちを支え、起こし、養い、望みを叶えてくださいます。私たちの主イエスの父なる神様は、御子を与えてくださるまでに私たちを愛してくださいました。この王は、同時にキリストを通して私たちの父となってくださいました。そして、キリストを通して主を呼ぶ人すべてに近くにいてくださいます(18節)。私たちの叫びにも耳を傾けてくださいます(19節)。

一年を締めくくり、新しい一年を迎えながら、ダビデと共に主を讃美しましょう。すべて肉なるもの、すべての被造物が主の御名をたたえることを望みましょう。そのために私たちを用いてくださることを祈りましょう。

淀橋教会主管牧師 金 聖燮