キリストの愛に満たされた生涯(10)
第2章 キリストの愛によってどのように生きるのか(前回に続く)
Ⅲ. 「アガペー共同体」を阻害する要因
そこでこのような「アガペー共同体」のミッション・ステートメントの実践を阻害する要因は何でしょう。その要因について、以下に記してみましょう。つまり、「アガペー」の愛を突き崩すものは何かと言う、極めて重要な課題について考えて見ましょう。
まず第一に考えられることは、「罪」です。神の御心に背いた行為や考えがお互いの生活と心の中に存在する時、それが私たちの内にあるべき「アガペー」を、喪失させてしまいます。ですから罪をそのままにしておくならば、私たちの心に抱く「愛」は、もはや「アガペー」ではなく、それは「アガペー」しているつもりでも、所詮、それは「アガペーもどき」であって、純粋な「アガペー」ではありません。「罪」ゆえに汚染されているのです。完全な「アガペー」は、罪あるところには「宿らず」、罪なき心の内に働く「聖霊の賜物」であり、聖霊の結ぶ「実」だからです。ですから、「アガペー」の内を歩み続けたければ、お互いの内から「罪」の行為と思いを常に排除し続けなければなりなりません。その唯一の道は、罪に気付いたならば、直ちに真心から罪を「悔い改め」、献げてしまうことです。ですからヨハネは、「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)と記したのでした。だから、「罪」をかなぐり捨て去りましょう。
第二は、「他者を裁く」ことです。これもキリスト者の犯しやすい罪の一つなのですが、これから述べる第二以下の「アガペー」を阻害する諸要素は、いずれもキリスト者の犯しやすい罪の一つ一つであって、前述した「行為と思い」における諸々の罪の中でも、特に日常生活における対人関係において犯しやすい罪として、これらに関して特記しておきたいと思います。
そこで「他者を裁く」ことについて言えば、お互いはこの「他者を裁く」と言うことによって、いかにしばしば「アガペー」を阻害してきたことでしょう。このことによって喜ばしく美しくあるべき主にある兄弟姉妹間の交わりが、どんなにか損なわれ「アガペー共同体形成」を阻害して来たことでしょう。この「他者を裁く」と言う悪しき行為には、他人の悪口を言うこと、他者を批判すること、相手を見下し軽蔑することなども、すべて「裁くこと」に相当します。こうすることによって人間関係が不健全となり、交わりがぎこちなくなり、アガペーが失われてしまうのです。サタンは、このお互いの弱点に付け込み、共同体を破壊しようと、日々、日常生活の中で虎視眈々と狙っているのです。「他者を裁く」ことは、まさにサタンの手先になるのと等しい行為なのです。よくよく警戒しようではありませんか。
第三は、「自分を誇る」ことです。「誇る」とは、他者を見下し、他者を裁くことに繋がりますが、何よりも自己慢心は、他者から見て自己主張の強い高慢・傲慢な存在となり、人から敬遠され、付き合いづらい存在となってしまいます。のみならず、他人から学び、教えられることを喜ばないために、プライドばかりの強い、人間成長の乏しい自己形成に陥ってしまいます。その結果、自らだけが自己満足しながら、その実、自己の円熟・成長を止めてしまう不幸な人間になり果ててしまうのです。そこには決して「アガペー」は宿りません。それゆえ、自らを「誇る」ことは、大なる「アガペー」への阻害要因となるわけです。ですから使徒パウロは、「愛は自慢せず、高ぶらない」(Ⅰコリ13:4)と戒めたのでした。(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。