キリストの愛に満たされた生涯(3)
第1章 キリストの愛とはどのような愛か(前回に続く)
Ⅲ. 惜しみなく最後まで愛し通す愛-全き愛-
更に、主イエスの愛は、「惜しみなく最後の一息まで愛し通す愛」でした。主イエスの愛が、どれほど大きな愛であったかを物語る美しい御言葉があります。その一つは、最後の晩餐に臨まれる時の主イエスの心を記述したヨハネの記録です。そこにはこう記されています。「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。」(ヨハネ13:1)と。そうです、主イエスは、「最後まで愛し抜かれた」のです。「愛し抜く」とは、「愛を貫き通す」ことであり、「底にまで徹する」ことであり、まさに「徹底的愛」だったのです。その徹底さは、「死に至るまで」、つまり「命を与える」ほどまでに徹底的でした。それゆえ主イエスのこの御愛について、使徒パウロはフィリピの信徒への手紙において、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」(フィリピ2:8)と記し、ヨハネは「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。」(Ⅰヨハネ3:16)と記しました。このように主イエスは、私たちに惜しみなく命までも与えるほどまでに、愛し通される愛をお示し下さったのでした。
果たして、こんなことが私たち人間に出来るのでしょうか。主は、私たち人間に出来ないことを要求される過酷なお方なのでしょうか。主は言われます。「死に至るまで忠実であれ。」(黙2:10)と。また聖書はこうも記しています。「だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ3:16b)と。更に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と。
そうです。前述もしましたように、主は決して不可能事を要求なさるお方ではありません。主は、必ずそれを成し遂げさせてくださるお方です。私たちがどこまでも、主は成し遂げさせてくださる愛と恵みと力に満ちておられる全能なる神であり、御子イエスに寄り頼み、聖霊に満たされ生きるならば、いざと言う極限的状況下にあっても、このことがお互いの生涯においても可能となることを信じようではありませんか。事実、聖霊に満たされたキリスト教会最初の殉教者となったステファノは、自らを石をもって打ち殺そうとした迫害者のために、あたかも十字架上の主イエスの如く、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と、自分の命をも惜しまず執り成しました。そして彼に続いて、他の使徒たちも彼と同様に、かのペンテコステの日に、天より注がれた聖霊に満たされることによって聖別され、次々と死に至るまで惜しみなく、命まで献げ尽くして聖なる殉教者となりました。その彼らの心の内には、すべての滅びゆく霊魂の救いのために、惜しみなく命までも献げてキリストの福音を宣べ伝えようとする救霊愛と、その使命を果たすためにすべてを神に献げ尽くした神への献身と全き愛が満ち溢れていました。その最も模範的なリーダーは、使徒パウロでした。彼はこう言いました。「しかし、自分の決められた道を走り抜き、また、神の恵みの福音を力強く証しするという主イエスからいただいた任務を果たすためには、この命すら決して惜しいとは思いません。」(使徒20:24)と。
おお、このように主イエスの内から流れ出た「惜しみなく最後まで与え尽くす愛」、「命まで与え尽くす愛」は、弟子たちの内にも、まさに実現されて行ったのでした。この愛をジョン・ウェスレーや初代のメソジストたちは、聖霊に満たされた者の内に内住する「全き愛」と呼びました。 (続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。