キリストの愛に満たされた生涯(1)

峯野龍弘主管牧師

序 私たちキリスト者にとっての生涯上の祈りと願望は、「キリストに似る者となる」と言うことではないでしょうか。このことについては前回連載しました「信仰生活の羅針盤」シリーズの最終章の第12章「主イエスに倣いて」において、すでに記しましたが、このことは別の表現をすれば、「キリストの愛に満たされて生きる生涯」と呼ぶことが出来ましょう。なぜならば主イエス・キリストの御生涯こそ、「愛に満たされたご生涯」そのものであり、かつ主ご自身こそ、「愛の本質」であられたからです。ですから「キリストに似る者となる」と言うことは、まさに「キリストの愛に満たされて生きる」と言うこと以外ではないのです。そこで本稿では、この「キリストの愛に満たされる」と言う大切な一事に焦点を絞り込み、学んで行きたいと思います。

第1章 キリストの愛とはどのような愛か

そこで今一度あらためて、「キリストの愛」とは、どのような愛なのか、考えて見ましょう。

Ⅰ. 敵をも愛し、迫害する者のために祈る愛

 それは「敵をも愛し、迫害する者のためにも祈る愛」です。主イエスは、主の御許に集まって来た群衆を山辺に導かれ、弟子たちと彼らにこう語られました。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。」(マタイ5:43~45)と。

そんなことが果たして出来るのでしょうか。主イエスは、人間に出来ないことを求められたり、ましておや命じられたりは、決してなさいません。出来るからこそ、ここで命じられたのです。ここには明らかに命令形で記されています。これは主イエスの御命令なのです。そしてここには重要な言葉が記されています。それは「天の父の子となるためである」と言う言葉です。その意味は、お互いが人間の母から生まれたままの存在であるならば、それは不可能ですが、しかし、「天の父の子となる」としたならば、どうでしょう。それは可能となるのです。ですから、この命令の言葉の背後には、「天の父の子となる」ための招きがあるのです。主イエスがこの世に来られたのは、私たち一人一人を、「天の父の子」となす招きのためだったのです。そしてこの招きに応じて、主イエスを真に神の独り子、救い主として信じて受け入れた者には、私たちにも「神の子」となる「権能」を与えて下さるのです(ヨハネ1:12参照)。それは信じた私たちの内に「御子の霊」、つまり「聖霊」が宿られ、お互いはまさにこの聖霊によって「神の子」とされ、親しく天の父を「アッバ父よ」と呼ぶことが出来るのです。のみならず、私たちはこの時から、主イエス・キリストと共に、「共同の相続人」とさえなるのです(ローマ8:14~17参照)。何と驚くばかりの恵みではありませんか。

かくして「神の子」とされたお互いが、この聖霊に満たされる時、私たちは内に宿られた聖霊の力によって、不可能と思える「敵をも愛し、迫害する者のために祈る」ことが出来る者に変えられるのです。これこそが、「神の子となる権能」を与えられたことの、鮮やかな証明なのです(ローマ8:16参照)。

小僕自身が、初めてこの明確な体験をしたのは、主イエス・キリストを救い主として信じて洗礼を受けたその時からでした。それまでは、しばしば至る所で証してきたように、肉親の父の酒乱と乱行の故に、幼少のころから絶えず暴行を受け、母と私は、日々生き地獄を経験していました。それゆえ私は成長するにつれて父に対する憎しみが増し、遂に父に殺意を抱くようになりました。そんな私が悩みの果てに教会に導かれ、キリストの福音に触れ、主イエス・キリストを救い主として信じ受け入れ、洗礼を受けてキリスト者となったのでした。何とその時から、私の心の内にあった父親への激しい憎しみが、徐々に消えて行き、父の乱行暴力は依然と変わらなかったにもかかわらず、私の心は十字架のキリストの御愛を戴いた喜びのゆえに、迫害する父親のために日々祈れるように成ったのでした。その私の変化を知った同じ苦しみの中にあった母親も、教会に導かれ、救われたのです。そして、何とこの父親の迫害をも絶え忍ぶ力が与えられ、迫害する父親を赦し、愛することが出来るようになりました。そこで父親の救いのために祈り続けていると、その執り成しの祈りは叶えられ、13年の歳月がかかりましたが、遂に父親が主イエスを信じ、見事に救われたのでした。その間、私を支えてくれた最大の御言葉は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)との御言葉でした。

かくして、主イエスは、人間には不可能と思えることも、見事に可能として下さったのでした。そうです、主イエス・キリストの愛は、「敵をも愛し、迫害する者のためにも祈る愛」なのです。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。