安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(3)
峯野龍弘牧師
第1章 主と共に歩む生涯への召命と献身(前回からの続き)
さて、そこで既に記しましたように「主と共に歩む生涯」とは、とりもなおさず「主が共におられる生涯」以外の何ものでもありません。私どもキリスト者にとって、いやそれ以上にお互い人間にとって、創造主であり、全能者である神、主が共にいて下さると言う事に優って素晴らしい恵みが他にあるでしょうか。万物を創造し、かつ所有し、支配しておられる「主が共におられる」ならば、何一つ不可能はないわけです。人には出来ないことがあっても、神には何一つとして出来ないことはないからです。神は、万物の創造者であり、全能者でいらせられるのですから。
旧約の昔、アブラハムがまだ「アブラム」と呼ばれていた頃の事でした。アブラムには、サライという妻がいましたが、彼らには子供がいませんでした。既に86歳を迎えようとしていた彼は、どうしても子孫を残さなければなりませんでした。もはや子供をもうけるには不可能と言われるほどの年齢を迎えていた彼は、やむを得ず妻と相談して女奴隷のハガルとの間で子供を儲けようとしました。そこで生まれ出てきたのがイシュマエルです。しかし、神はこれを良しとはせず、彼が99歳の時に突然主は彼にご自身を現され、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」(創17:1~2)と言われ、続いて更に「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。」(同4~5)と言われました。そして遂に主はアブラハムに、「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。」(同15~16)とも言われたのでした。この後、三人の使いがアブラハムの許を訪ね、その旨を告げると物陰に隠れその話を傍受したサラが、思わずそんな筈があろうかと信じられずに「笑った」(同18:12)のでした。その時、主は即刻アブラハムにこう告げたのです。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(同13~14)と。はたせるかな、その翌年のそのころにアブラハムとサラの間に、息子イサクが生まれたのでした(同21:2)。
この時以来、いよいよアブラハムは自らの生涯を貫いて、神には何一つ不可能なことはなく、出来ないことは何一つないことを確信し続けるようになったのでした。のみならずこのアブラハムの信仰こそが、その後のすべての時代の、すべてのイスラエルの人々の「信仰の礎石(そせき)」となり、彼をして「信仰の父」と呼ばれる存在にしたのでした。ですからローマの信徒への手紙の中で、使徒パウロは、このアブラハムの信仰について、こう記しています。「彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」(ローマ4:16~21)と。
そうです。アブラハムの信仰とは、「神には不可能なことはない。主には何一つ出来ないことはない」という信仰でした。そもそもアブラハムが、「諸国民の父」となるとの神との契約を戴いた時、それに先立って主は彼にはっきりと「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」(創17:1)と命じられたのでした。主は「全能の神」なのです。ですからアブラハムは、全生涯を掛けてこの「全能の神」、つまり「不可能のない、何一つ出来ないことのない神」を主と仰ぎ、生涯一筋にこのお方に従って、完全に歩むように主ご自身から求められていたのでした。実にこんな幸いなことはありません。まさに主からの「完全保証付の生涯への招き」です。これほどの行き届いた「祝福への招き」がどこにありましょうか。アブラハムは、この招きに完全に従ったのです。彼の耳元には生涯、常に「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」という主の御声が聞こえていたに違いありません。それゆえアブラハムは「諸国民の父」と呼ばれるに至ったばかりか、いやそれ以上に「信仰による義人」(ローマ4:3参照)とされたのでした。
このように「主と共に歩んだ」アブラハムには、常に「主が共におられ」彼を祝福されたのでした。それゆえ彼の生涯における如何なる困難事、不可能事があっても、彼は屈することなく前進し、遂にその生涯を全うすることが出来ました。ですから「主が共におられる」と言う事ぐらい素晴らしい「人生の祝福と保証」は、他にないのです。(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。