信仰生活の羅針盤(29)

峯野龍弘主管牧師

第12章 主イエスに倣(なら)いて<前回に続く>

Ⅱ. キリストに似る者となるために

使徒パウロは、お互いキリスト者が、「キリストに似る者となる」ために、決定的な奥義(秘訣)を教えてくれました。それは次の彼の祈りの中で伝授されました。彼はエフェソの信徒のために、真心こめてこう祈りました。
「このようなわけで、私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、膝をかがめて祈ります。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださいますように。あなたがたの信仰によって、キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように。あなたがたが愛に根ざし、愛に基づく者となることによって、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように。私たちの内に働く力によって、私たちが願い、考えることすべてをはるかに超えてかなえることのできる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々にわたって、とこしえにありますように、アーメン。」(エフェソ3:14~21)と。

少し長い引用と成りましたが、この祈りを熟考してみてください。この祈りの中には、お互いが「キリストに似た者となる」ことの出来る秘訣が、見事に表現されています。

第一に、それは私たちの切なる願望である以上に、私たちが「キリストに似た者となる」ことは、神ご自身の聖なる御心であり、お互いが「キリストに似た者」となることによって、神が栄光をお受けになられるのです。ですから、使徒パウロは、「私が切に願い、望んでいるのは、…生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることです。私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。」(フィリピ1:20~21)と自らが生きるにしても、死ぬにしても、「キリストに似る者」となることによって、主に栄光を帰したいと切願したのでした。ここで重要なことは、私たちが「キリストに似る者」となりたいと切願する必要があることです。そしてその切願の動機は、そうすることによって、「キリストが崇められる」こと、つまり「キリストの栄光」のためであると言うことです。「切願」のない人は、「キリストに似る者となる」ことが出来ません。また、自分が立派になり、キリストのように成ることによって、人々からの称賛を受けるためではありません。それは不純な動機です。そこで、「神の栄光のため」と言う純粋な動機をもって切願する者には、「キリストに似る者となる」恵みが与えられるのです。

そこで第二には、「キリストに似る者となる」ことは、決して私たちの知恵や力や努力によるものではなく、それは、「主の霊と力」、つまり「聖霊の働き」による恵み(恩寵)なのです。ですからパウロは、こう祈ったのです。「その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださいますように。」(エフェソ3:16)と。この恵みは、まさに「キリストに似る者となる」ことを、切に祈り求める者に賜わる主の恵み(恩寵)であり、主の応答であり、主ご自身の御業なのです。ですから、弱い無力な私たちが、自分たちの知恵や力や努力によっては、到底成し遂げ得ない「キリストに似る」と言うこの大いなる変革に、私たちが与(あずか)ることが出来るのです。

そして第三に、その理由は、このように信じ祈り求めたお互いの心の内に、聖霊によってキリストご自身が内住して下さると言う聖なる霊的出来事が起こるからです(エフェソ3:17a)。この明確な事実を、「内住のキリスト体験」と呼びます。ですからパウロは、こう告白したのです。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラ2:20)と。この厳かな聖なる体験に与る時、古いお互い自身は死んで、新しくお互いの心の内に、聖霊によって、キリストご自身が内住し給い、生きて働かれるのです。この時、お互いはキリストが思われ、語られ、行動されるように、生きることが出来るようになるのです。これが「キリストに似る者となる」と言う内実なのです。

そこで第四に、ついにその結果として、お互いはキリストの愛に根差し、その愛に基づく聖なる者とされ、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知り、それに満たされながら生きる者と変えられて行くのです(エフェソ3:17b~19)。

そして第五に、かくして私たちの内に働く聖霊の力、またキリストご自身の御力によって、私たちの切願をはるかに超えて、この祈りをかなえて下さった主ご自身に栄光を帰すことが出来るのです(同20~21)。

以上が使徒パウロが、その祈りの内に明示してくれた驚くばかりの「キリストに似る者となる」ことへの奥義の開示であり、その秘訣、そしてその絶大な恩寵の道だったのです。ですから、お互いは「キリストに似る者となる」必要があるのです。信じてこの道一筋に進もうではありませんか!(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。