信仰生活の羅針盤(28)

峯野龍弘主管牧師

第12章 主イエスに倣(なら)いて

さて、「信仰生活の羅針盤」シリーズを、すでに第11章まで綴ってまいりましたが、最後の第12章は、「主イエスに倣いて」と言うテーマで締めくくりましょう。

豪華客船が、乗船客を乗せて港を出港し、長い航海の旅に出ます。その途上で幾つかの寄港地を経て、遂には最終の憧れの目的地にたどり着きます。その間星一つ見えない真っ暗な夜空の日もあれば、わけても波荒れ狂う嵐の日もあるでしょう。しかし、その船は航路を見失い誤ることもなく、確実に寄港地を経て、最終目的港に無事に行き着き、乗船者を憧れの観光地に送り届けるでしょう。それは正確な海図と高度な羅針盤がその船に装備されており、それに従って船長も航海士も操舵士も操船するからです。羅針盤は、常に正しい方向に彼らを導き、遂には確実に最終目的地へと彼らを送り届けてくれます。

そのように本稿を通してここまで共に学んで来たことも、お互いの長い信仰生活と生涯の旅を続けるにあたって、お互いが航路を間違え、途上の人生の嵐や闇夜の中を彷徨(さまよ)い、暗礁に乗り上げ座礁したり、破船したり、沈没しないために、「聖書と言う正しい海図」と「信仰と祈りと聖霊の導きと言う羅針盤」によって方向を定め、「心と生活とお互い自身と言う船」を確実に操船して行くための指針とするためでした。

そこで最後に、愛兄姉方にはっきりと認識して頂きたいことがあります。それは何でしょうか。それはお互いの長い信仰生涯と言う旅路における、この地上での最終目的地はどこかと言うことです。お互いが、この地上での信仰の旅路において、常に目指すべき最終目的地、つまりゴールは、果たしてどこでしょうか。それは「主イエスに似る者となる」と言う一事です。このことについては以前にも触れたことがありましたが、この最後においても今一度、この大切な一点について強調して、本稿を終えたいと思います。

Ⅰ.神と御子イエスに似る者となる

ヨハネは、次のように記しています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです。…愛する人たち、私たちは今すでに神の子どもですが、私たちがどのようになるかは、まだ現されていません。しかし、そのことが現されるとき、私たちが神に似たものとなることは知っています。神をありのままに見るからです。神にこの望みを抱く人は皆、御子が清い(聖い)ように自分を清く(聖く)するのです。」(Ⅰヨハネ3:1~3)と。

そうです。お互いは、すでに主イエスの十字架の血潮によって尊い贖(あがな)いに与り、罪赦(ゆる)されているのです。ここに私たちの救いのために御子をお与え下さった父なる神の絶大な愛が示されています。ですからヨハネはこのような父なる神の愛を受け、めぐって論争が生じたり、異端問題が起ったり、わけても内部で勢力争いや分争などが生じていことを知って、何としても和解と一致が生まれてほしいと願ったに違いありません。その最大の問題は、彼らの内に最も重要な愛が失われ、それ以外のところに彼らの心と思いが注がれていたからです。そこで彼はこう言ったのでした。「あなたがたは、もっと大きな賜物を熱心に求めなさい。そこで、私は、最も優れた道をあなたがたに示しましょう。」と。それがこの有名なコリント第一の手紙の第13章の珠玉の一章だったのでした。ですからお互いも生涯愛を追い求め続け、それからそれないようにいたしましょう。そこでパウロは、そこをこう結んだのです。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」(同13:13)と。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。