信仰生活の羅針盤(15)

峯野龍弘主管牧師

第8章 主イエスの愛と恵みに生きる者が見上げる逆説的恩寵(おんちょう)

<前回に続く>

Ⅱ. 低いものが高められ、高いものが低くされる逆説的な恩寵

次に、低いものが高くされ、高いものが低くされると言う逆説的恩寵について述べてみましょう。主イエスは、ある時、ご自身のみ許を訪ねてきたゼベダイの二人の息子とその母親に対して、こう言われたことがありました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(マタイ20:25~27)と。なぜなら、彼らが、この世で偉い人になり、高い地位に着き、人々の上に立ちたがっていたからです。しかも、この二人の息子ヤコブとヨハネは、もうすでに3年間もの長きに亘(わた)り主イエスの御側近くで、教えを受けて来た人物でした。それにもかかわらず、なお世俗的な母親にそそのかされて、主イエスの御許に来て、上に立つこと、高い地位に立つことを願い求めたのでした。人間のこの名誉欲、支配欲、名声欲は、何と醜悪で根深いことでしょう。単にそれがいかに悪いことであるかについて教えられようとも、決してその程度では容易に克服できるものではありません。

そのような彼らに対して、主イエスは、まさに正反対の在り方、生き方を示されました。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」と強く教え諭されました。このような生き方こそが、真に尊い神の御心に適う聖(きよ)い生き方だったからです。換言(かんげん)すれば、このような生き方こそが、「神の国」にふさわしい美しく尊い生き方であって、欲望によって支配され、汚されたこの世を「神の国化」する「天国的生活原則」であったからです。主イエスの真の弟子となると言うことは、この世の欲望によって支配されている世俗的価値観から解放され、このような「天国的価値観」をもってこの世を生きる者に、その考え方と生き方が変革されることを意味していたのです。ですから主イエスは、いと高き神のみ前で尊ばれ、受け入れられる「真に価値ある生き方」は、この世で「他者を支配」し、「上に立ち権力を持つ人」となることではなく、「他者に仕え」、「他者の僕」となる生き方をすることこそ、「真に価値ある高き生き方」であることを明示されたのでした。これは、まさに「自らを低くする者は、神のみ前に高くされる」と言う「逆説的真理」、「逆説的恩寵」を意味しています。

この真理については、先に主イエスは、マタイ福音書の18章においても、弟子たちの「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(同18:1)と言う質問に対して、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(同18:3~4)と答えられ、この「逆説的真理」を明らかにされました。

しかし、当然のことながらここで「自分を低くする」と言うことは、その人の「心と生き方」の「謙虚さ・謙遜さ」を言い表したものであって、いわゆる「身分や地位の高さ、低さ」を云々したのではありません。身分や地位の低い人の中にも、この世では傲慢・不遜な人々が大勢います。その反対に身分や地位の高い人であるにも関わらず、実に謙虚で、常にいかなる人々に対しても謙遜に、僕のように仕える有徳な人物もいるものです。このような人々こそ、「天の国の有資格者」と言えましょう。このような人々こそ、主イエスの御心に適う「真のキリスト者」と言えるのです。

そこで、この真理を自ら実践され、最高の模範を示されたお方がおられます。そのお方こそ、主イエスご自身です。ですから主は、「最後の晩餐」の時に、師であるご自身が弟子たちの僕のようになられて、弟子たちの足を洗われました。そして言われました。「師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:14~15)と。まさに、これが以前にも述べたように、かつてのプリンストン大学の総長であったマカイ博士が言われた、「しもべの像(形)」と言う美しく聖い「真のキリスト者」の生き様なのです。

そうです。ですから使徒パウロは、この主イエスご自身の「低くされた究極の姿」を、次のように記しました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)と。何と言う主イエスの「究極的へりくだりの姿」でしょう。これを淀橋教会の創立者であった聖徒笹尾鉄三郎師は、「キリストの謙卑(けんひ)」と呼びました。それゆえパウロは、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(同9~11)と記したのでした。ハレルヤ!(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。