信仰生活の羅針盤(14)

峯野龍弘主管牧師

第8章 主イエスの愛と恵みに生きる者が見上げる逆説的恩寵(おんちょう)

主イエスの愛と恵みの中で、日々生かされているお互いには、逆説的恩寵を仰ぎ見て生きることが出来ます。何と言う恵み、何という喜び、何という感謝なことでしょう。世の人々の常識論から見るならば、まさに悲しみ、不幸、災いとしか思えないことも、お互いキリスト者は、主イエスのご愛と恵みの内を歩むことによって、それをも越えてその中にさえ、大きな恵みを仰ぎ見ることが出来ます。これを「逆説的恩寵」と呼びたいと思います。

ではどのような「逆説的恩寵」に与ることが出来るのでしょうか。

Ⅰ.「弱さこそ、強さ」と言う逆説的恩寵

まず初めに「弱さこそ、強さ」と言う逆説的恩寵の真理について述べてみましょう。この世の多くの人々は、弱さを恥じたり、悲しんだり致します。そしてその反対に強いと言われる人々は、その強さを誇ったり、強さのゆえに弱い人々を馬鹿にしたり致します。これこそ大いなる神の存在を知らず、信ぜず、認めない人々の、いずれも愚かさと気の毒さと言っても過言ではありません。なぜなら、大いなる神の存在を知る者たちにとっては、弱さは少しも恥ずべきことではなく、わけても悲しむべきことでは、断じてないからです。そして、強さを誇り、弱い人々を見下すことなどは、神の御前に傲慢の罪を犯す以外の何ものでもなく、極めて恥ずべきことだからです。所詮、人間は皆、全能なる神のみ前に有限で無力な存在以外ではないのです。その神からご覧になれば、自分は弱いと嘆く者も、また強いと自負する者も、大差がないばかりか、共に弱い者なのです。

ちなみに、皆さんは高層ビルの上から真下の道路を歩く人々を眺めたことがおありでしょう。誰もが皆、蟻のように小さく見え、その人たちの背の高さや大きさなど、少しも比較の対象とはなり得ないほど、誰もが小さく見えます。それなのに下からビルの屋上から見下ろすあなたに向かって、その人たちが私の方が背が高いでしょうと競い合い誇ってみても、まったく無意味ではないでしょうか。そのように人間がお互いを競い合っている姿を天から見ておられる神は、果たして何と思っておられるでしょうか。

さて、使徒パウロはある時、他の人々があずかり知ることが出来ないほどの素晴らしいことを体験しました。それは他の人が聞いたなら、パウロを称賛するに違いないほどの素晴らしい体験でした。それゆえ彼の心の内には、それを誇らしく思う心が鎌首をもたげようとしたのでした。しかし、この時彼の身に彼が決して誇ることがないように、神があえてサタンからの攻撃を赦されて、彼の肉体に他の人々の前で決して「思い上がることのないように」(Ⅱコリ12:7b)、他の人々に誇れないような「肉体上の弱さ」を与えました。これを彼は「一つのとげ」とか「わたしを痛めつけるためにサタンから送られた使い」(同7c)と呼んでいます。そこで彼は三度もしきりに神に祈り、これを取り去っていただこうとしました(同8)。ところが神は彼にこう言われたのでした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(同9a)と。

この御声をはっきりと聞いた時、使徒パウロは悟りました。そこで彼は即座にこう応答したことについて、次のように記しています。

「だから、キリストの力がわたしに内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(同9b~10)と。

そうです。この時、彼がはっきりと悟ることが出来た真理は、何だったのでしょう。

それは第一に、何よりも自分の「強さ」を絶対に誇ってはならないと言うことです。それは「傲慢の罪」を犯す以外の何物でもありません。お互いは、常に謙遜であるべきです。

第二に、自分の「弱さ」を恥じたり、恐れたり、卑下しては断じてならないと言うことです。「弱さ」は、自分を決して誇らせないために神が与えて下さった「安全装置」であって、お互いを「謙遜」へと導いてくれる「謙遜への友」なのです。

第三に、人間は、自分の「弱さ」を真に悟って謙虚にされた時、初めて偉大なる神の存在とその御力を認め知って、そのみ前に膝をかがめることが出来るようになります。のみならず、その神が如何に恵み深く憐れみに富むお方であるかを知る時、思わずその神に祈り求め、依り頼む者に変えられて行きます。更にそうすることによって精神的にも、肉体的にも大いに力を与えられるのです。その時にこそ、その人は神が恵み深く、その恵みが如何に十分であったかを知って、神に感謝することでしょう。

第四に、わけても、自分が「強い」と思っていた時には、自分の力の上限までの「強さ」でしかなく、その力では間に合わない困難事に直面した時には、もはやどうすることも出来ず、自分の無力に涙することになります。しかし、常に自らの知恵と力には限界があり、所詮自らは「弱い」存在であることを謙虚に認め知って、事ごとに偉大な神の御力に依り頼む人は、その「弱い」自分の内に「強い」、しかも「全能の神の力」を迎え入れることによって、自分の力の限界を越えて、不可能事に挑戦し、それを実現させていただくことが出来るのです。

そこで使徒パウロは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」との主の御声を聞いた時、彼はこの「真理」、いや、この「弱さに関する逆説の奥義」を悟り、遂にこう明言することが出来たのです。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。…なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(Ⅱコリ12:9b~10)と。そうなのです。お互いキリスト者が、主イエスから賜った大きな恵みの一つは、このお互いの「弱さ」の中に偉大な「神の力」を迎え入れることの出来る、つまり「弱さこそ力」と言い切ることの出来る「逆説的恩寵」です。何と素晴らしく、幸いな恵みでしょうか。

だから、愛する兄弟姉妹、「弱さ」を感謝し、「弱さ」を誇りとしようではありませんか!(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。