信仰生活の羅針盤(5)
峯野龍弘主管牧師
第4章 宣教と救霊愛
前章では、「地の塩、世の光」と言うことについて記しましたが、それは主イエス・キリストによってこの世に遣わされているキリスト者と教会の、果たさなければならない「尊い使命と責務」であると強調しました。しかし、キリスト者がこの世にあって果たさなければならないもう一つの重要な「尊い使命と任務」があります。それが「宣教と救霊」です。そこで先ず「宣教」について言及して見ましょう。
Ⅰ.「宣教」とは
「宣教」とは、「十字架によって成し遂げられた主イエス・キリストの福音を、人々に宣べ伝えること」です。ですからこれを一言で「福音宣教」と呼んでいます。この「福音宣教」こそ、主イエスがこの世を去り、天に帰られる直前に弟子たち、つまりすべてのキリスト者たちに命じられ、かつ託された「尊い使命と任務」でした。主は弟子たちにこう命じられました。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と。そこで弟子たちは、直ちに「出かけて行って、至るところで宣教した。」(同20)のでした。のみならず、主イエスはその弟子たちが力強く、何者をも恐れることなく大胆に宣教することが出来るために、聖霊の力を受けることが出来るように約束されたのでした。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)と。ここにこそ、お互いすべてのキリスト者が、「福音宣教」を「尊い使命と任務」として担わなければならない、聖書的根拠があるのです。しかし、「宣教」は「尊い使命」であり、「任務・責務」ではありますが、いわゆる「責任感」や「義務感」から出た、仕方なしにしなければならない事柄としてなす行為では断じてありません。そこには以下に述べるような、素晴らしい純粋な聖い動機が基盤となっているのです。
Ⅱ.「宣教」の動機と「救霊愛」
その「宣教」への純粋な聖い動機とは、何でしょう。
➀ それは第一に、主イエス・キリストによる「明確な救いの体験」から沸き起こる「感謝と喜び」こそ、「宣教の動機の基盤」です。つまり主イエス・キリストが真の神の御子であって、その御子の十字架の死を通して成し遂げられた、お互いのための「罪と死と永遠の滅び」からの全き贖い(あがない)を信じることによって、永遠の命を与えられ、神の子とされ、かつ神の義と聖に与ることが出来た事を確信する「明確な信仰と霊的体験」が、すべての宣教の基盤となって、その結果、その心の内から湧き上がる大きな感謝と喜びが迸(ほとばし)り出て、それが宣教への動機となり、動力ともなるのです。
それはさながらヨハネの福音書第4章に登場してくる、あの真昼に井戸端に水を汲みに来たサマリヤの女が、そこで主イエスと出会い、「永遠の命に至る水」を受け救われて、全く生まれ変わってしまった時、彼女は、その驚くばかりの恵みの体験に対する大きな感謝と喜びのゆえに、思わず立ち上がり、水瓶(みずがめ)をも投げ捨てて、町に行き人々にこの「喜びの福音」を宣べ伝えたのと、全く同様です。(同4:1~30参照)
② 第二は、強いられてなす「義務感」や、果たさなければならない「義務感」からではなく、自らの受けた絶大な恵みのゆえに、そうせずにはいられないと言う自発的、積極的「使命感」から出たもので、またそれと同時に、そうしないことは受けた恩寵(おんちょう)に対する忘恩(ぼうおん)となり、それは受けた恩義に対して何も報いることをしない「忘恩の罪」を犯すようなもので、それは決してあるべきではないと強く思う、受けた恩寵に対する強い「愛の負債感」が、もう一つの「宣教への動機」となったのです。
ですから使徒パウロが、「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸(厄い)なのです」(Ⅰコリ9:16)と言った言葉が、まさにこの自発的、積極的「使命感」と、受けた恩寵に対する「愛の負債感」を雄弁に現わしています。
③ 第三に、何よりもその「宣教への動機」は、すべての滅びゆく霊魂と、すべての救いを必要とする人々への強い「救霊愛」に基づくものなのです。
そもそもこの世における諸宗教の布教活動には、しばしばそれぞれの宗教の信者獲得と、当該宗教の勢力拡大のために行われると言う、悲しむべき現実と弊害がありますが、ややもすると、キリスト教世界においても、昔から洋の東西を問わず、ほぼこれと同様の次元の過ちが犯されて来たことは、皆無ではありませんでした。また使徒パウロは、フィリピの手紙の中で、早くも初代教会の中においてさえ、福音を宣べ伝えるのに、つまり「宣教する」に当たり、他者を妬んだり、他者と競い争ったり、また自分の利益を求めたりしながら、「不純な動機」から福音を宣べ伝えた人々がいたことを指摘しています(同1:15~17)。断じてこのようなことはあってはなりません。そこで彼は、純粋な「愛の動機」から、福音が語られ、宣教がなされるべきことを示唆しています。のみならず、彼はエフェソの教会の長老たちに、「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」(使徒20:24)と断言していますが、ここにこそ使徒パウロの福音宣教に賭ける、まさに「命がけの救霊愛」の純粋動機が、吐露されていると言っても過言ではありません。
そうです。究極の「宣教の純粋動機」は、ただ唯一、「救霊愛」にあります。なぜなら、これこそが主イエス御自身がこの世に来られ、お互い一人一人に、いや全人類の救いのために示された「救霊の動機」だったからです。その動機こそ、「愛(アガぺー)に他なりません。主イエスのこの世に来られた御目的は、ただ一つ。神から離れ、永遠に失われ、滅び行く全人類の霊魂を、一人残らず救い出し、永遠の神のみ国の民として迎えるためでした。つまり、「全人類の救霊」です。そして、この御目的実現のために主イエスが抱かれ、現わされた「聖なる御思い」、それが十字架において、その最高峰を仰ぎ見た「主イエスの愛(アガペー)」でした。ここに「救霊愛の極致」を仰ぎ見みることができます。そして、これこそがすべての宣教活動の究極であり、「救霊愛」の原点なのです。
主イエスは、この「アガペーの救霊愛」を抱き、最初のガリラヤ宣教に着手され(マタイ9:35~36)、続いてこの「救霊愛」を持って「宣教」に従事させるために、弟子たちを選び、この世に派遣し、滅びゆく一人の霊魂も無きように、滅び行く罪深いたった一人の霊魂も失わないように、世に遣わしたのでした(同10:1~4)。
主にある愛兄姉方よ、お互いも主イエスに従い、アガペーの「救霊愛」をもって、すべての人々の救霊のために献身して、一人残らず全員「信徒宣教者」として頂き、「全世界に行って、すべての作られたものに、福音を宣べ伝え」ようではありませんか!(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。