信仰生活の羅針盤(4)
峯野龍弘主管牧師
第3章 地の塩、世の光
Ⅱ、「世の光」であるとは
さて、次にキリスト者が、「世の光」であるとは、どういう意味なのでしょうか。主イエスは、先の「地の塩」に続いて弟子たちに、「あなたがたは世の光である」と言われたのですが、これまた何と光栄なことでしょう。そもそも、お互いは「世の光」などと呼ばれるには、全くふさわしくない存在でしかなかった者なのに、キリスト者となったその瞬間からそのような者として、主からこの世に遣わされる存在と成ったのです。ただただ恐れおののくばかりです。しかし、とは言えこれはお互いの能力や働きが評価されてそう成ったのではなく、主がお互いをそのような者として新たに造り変えて、用いてくださろうとする主の一方的な選びと御計画のゆえでした。そして、主が必ずそうさせて下さると言う約束でもあるのです。それは、主の恵みと御力によるものです。何と驚くばかりの祝福でしょう。ですからお互いは、このお約束の成就されることを信じて、主にお従いし、心からの感謝をもって歩み出し、その使命達成に努めなければなりません。それはまたお互いに対する主の御期待でもあるのです。それゆえ何としても、この主イエスの御期待に添いたいものです。
そこで「世の光」には、どんな役割があるのでしょうか。
① 第一は、闇を明るくし、行く道を照らす「照明作用・効果」と言う役割です。
② 第二は、行き先や方向を正しく指し示す「道標作用・効果」です。
③ 第三は、体や物を温める「温熱、暖房作用・効果」です。
④ 第四は、人間や動植物の生命を維持し、促進させる「生命維持、促進作用・効果」です。
⑤ そして第五は、更に病み、衰える生命を癒し、活力を与える「生命治癒、活性作用・効果」と言う役割です。
何と言う大切な役割でしょうか。そこで主イエスは、特にマタイ5:14~16において、弟子たちの御心に適った良き生き方・態度・生活を通して、この世の諸々の暗闇や人々の心や生活の中に潜む罪の闇路を照らし、明るい社会や聖(きよ)い人生を創成するために、良き証しと働きを成すようにと、弟子たちに命じられたのでした。そうすることによって神の子として彼らが、天の父なる神に栄光を帰すことが出来るようにと願われたのでした。
ですから主イエスは、今日のお互いキリスト者にも、同様にそうなることを願い、期待しておられることでしょう。これまた何と言う光栄なことでしょう。そこで主は、わたしたちにもこう言われるのです。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と。
そうです。お互いキリスト者は、「山の上の町」であり、「燭台の上に置かれたともし火」でなければならないのです。「山の上の町の光」のように、いつでも、どこからでも人々に見られているのです。「隠れること」は出来ず、隠れてはならないのです。また「燭台の上のともし火」のように、常に周囲を照らさなければなりません。「升の下のともし火」のように、「升」を逆さにし、その下に置かれた「ともし火」のようになっては、断じてならないのです。升の中に「隠されたともし火」は、何の役にも立たないばかりか、その光は消え、後に残るのは煙と臭い匂いばかりです。キリスト者は、「地の塩」のように常に「謙遜」であり、高慢になって自己主張したりせず、むしろ自分を捨て、献身的に神と人々に仕える「愛の僕」でなければなりません。また、その反対に人前を恥じ恐れ、批判や反対を回避し自分の身を守るために、自分がキリスト者であることを隠し、大切なキリスト者としての「社会的使命と責任」を果たすために、キリストの愛を持って大胆に、積極的に証ししないとするならば、それでは「世の光」とはなれず、「升の下のともし火」となってしまします。そのような人は、この「光栄ある身分」と、キリスト者としての「尊い使命と責務」をないがしろにする人であって、どんなにか主の御心を悲しませ、主の御期待を裏切ってしまうことか知れません。果たして、愛兄姉方は、いかがでしょうか。
ですから、お互いは日々よく祈り、御言葉を学び、大いに聖霊に満たされて、
① 第一には、この世の闇を駆逐し、人々の人生の行く道を照らすことの出来る「照明作用・効果」のあるキリスト者でありたいものです。
② また第二に、社会や人々の行き先や方向を正しく指し示す、「人生の道しるべ」としての「道標作用・効果」のあるキリスト者として頂きたいものです。
③ そして第三に、愛の極度に冷え切ったこの終末的現代社会の中にあって、人々の心を温め、情熱を注ぎ込む「温熱、暖房作用・効果」のある「愛の人」でありたいものです。
④ 更に第四に、行き詰まりと絶望の中で喘ぎ、尊い命を自ら断つ人々も多い今日の社会に、生きる喜びと希望を与える「生命維持、促進作用・効果」をもたらす尊い存在でもありたいものです。
⑤ そしてまた第五に、心を病み、肉体をも病み、死の恐怖に怯えている人々に、癒しと平安と更なる生きる喜びと力を送り届ける「生命治癒、活性作用・効果」の大なる存在とさせて頂きたいものです。
Ⅲ、キリスト者の尊い使命と光栄ある責務に召されて
以上に述べて来たように、お互いキリスト者は、このような「地の塩」、「世の光」としての「光栄ある身分」を主から与えられ、その「尊い使命と責務」を果たすようにと召されているのです。ですから決して疎かに日々を過ごしていてはならないのです。もっと心と身を引き締めて、その尊い使命感と厳かな召命感に目覚め、日々を過ごさなければなりません。ましておや、このような「尊い使命と責務」を帯びたキリスト者をその構成メンバーに持つ「キリストの体なる教会」、つまり「アガペー共同体」は、常にその信徒一同をこの「尊い使命と責務」に目覚めさせ、かつその「光栄ある働き(ミッション)」のために、絶えず育成し続け、世に送り出していなければなりません。そのためには、その育成のために立てられている牧師・説教者の責任は、極めて甚大です。毎週の礼拝・諸集会に集い、御言葉を学び、週ごとにこの世に遣わされて行き証しする信徒各自が、その光栄感と責任感を深く覚えて、喜びを持ってこの世に遣わされて行くことが出来るよう、教役者たちは常に万全を期さなければならないのです。信徒たちが、この世に出て行って存分、その「使命と責務」を果たし得るか、否かは、ひとえにその共同体を牧会する牧師たちの深い愛と牧会配慮、そしてその説教の如何に係っていると言っても過言ではありません。このことを思う時、お互い教職者の責務は、極めて大きいことを痛感させられます。
かくして以上のような諸点を深く心に留めながら、「愛の共同体」としてのお互いの教会も、またその構成メンバーであるお互い一人一人のキリスト者も、この「尊い使命と責務」を強く自覚して、折角、主から賜ったこの「地の塩・世の光」としての「光栄ある身分」を風化させることなく、その尊い役割を今置かれている現代社会の中にあって、また遣わされている使命の場にあって、存分、果たして行きたいものです。願わくは、「地の塩」として、「世の光」としてその効用を、十全に果たし得る「教会とキリスト者」とならせて頂きましょう!(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。