信仰生活の羅針盤(3)
峯野龍弘主管牧師
第3章 地の塩、世の光
キリスト者は、「地の塩」。「世の光」です。何と言う光栄なことでしょう。主イエスが弟子たちに、こう言われました。「あなたがたは地の塩である。・・・あなたがたは世の光である」(マタイ5:13、14)と。そのように主は、ご自身を真の救い主と信じ仰ぎ見るお互い一人一人のキリスト者たちにも、同様に、「地の塩、世の光」と呼んで下さっているのです。なぜなら、言うまでもなく主イエスは、心からその罪を悔い改め、ご自身を、唯一の真の神の御子・救い主と信じ、告白し、バプテスマを受けたお互い一人一人を、聖霊によって新たに生まれ変わらせ、神の子として下さり、弟子たち同様に深く寵愛(ちょうあい)して下さっておられるからです。それはご自身の御霊、つまり聖霊の力と恵みによるものでした。この事はまさに、「大いなる福音」と言わざるを得ません。
そしてこの瞬間から、お互いキリスト者には、同時に、この世に対する大いなる「使命」が与えられたのです。それは、お互いキリスト者のこの世に対する「社会的責任」でもあります。のみならず、この「使命」と「責任」以上に、今まではお互い自身が「罪人」であり、主の御心に背き、この世の「世俗の闇」の中を歩み、この世の腐敗に対して加担して来たお互いであった者が、何と今や神の御心に従って光の中を歩み、世の腐敗を浄化する働きに召され、神の栄光と人々の祝福のために仕える「神の子」並びに「主の僕」とされたのですから、何と言う感謝なことでしょう。これは光栄ある身分であって、それは「地の塩」、「世の光」と呼ばれるほどの尊い身分です。ですから、キリスト者であるお互いは、この「光栄ある身分」を付与された者として、大なる感謝と喜びを持って、この世に遣わされて行き、その尊い「使命と責任」を果たさなければなりません。これは誇るべき何ものでもなく、むしろその尊い責務を深く覚えて、主の御前に心から遜って(へりくだって)、「主よ、その尊い任務を果たし得るにふさわしい僕として下さい」と祈らなければなりません。果たして愛兄姉方は、この点に関して今日まで如何なる自覚を持って、歩んで来られたでしょうか?
Ⅰ、「地の塩」であるとは
このことに関しては、以前にも他の機会に記したことがありましたが、「地の塩」には概ね次のような、大切な役割があります。
① 何と言っても先ず第一には、その「調味作用・効果」でしょう。とくに主イエスは、マタイ5:13で、この点を取り上げて、弟子たちに塩が食べ物をおいしくするために欠かせない「調味料」であり、「味付け効果」を持っているように、キリスト者の存在が、味気ない人間関係に、良き味付けをもたらす「霊的・精神的調味作用」を成すものでなければならい事を教えられました。そこでこう言われました。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(5:13)と。ですからお互いは何と大切な社会的存在なのでしょうか。それなのにお互いがこの大切な役割を果たせないばかりか、かえって人間関係を味気なくしたり、気まずい者にしてしまったりしようものなら、何の存在価値もありません。だから主イエスは、このように弟子たちを戒められたのでした。ですからお互いも、この点についてよくよく留意しようではありませんか。
② 第二には、その「防腐浄化作用・効果」です。その存在を通して周囲の腐敗や汚れが除去されるのです。これまた何と大切な働きでしょう。キリスト者が社会に存在することの使命とその意義は、ここにもあります。それなのにキリスト者が社会を悩まし、迷惑をかける存在と成ったとしたら、どんなにか主の聖名を汚し、主を悲しませてしまうことでしょう。それは大きな福音宣教の妨げとなり、人々に躓き(つまづき)を与えてしまうことになります。断じてそうなるべきではありません。しかし、その反対にお互いの存在が、周囲の人々や社会の腐敗を止め、悪の浄化に役立ったとしてなら、どんなにか福音の前進に大きく貢献し、主に栄光を帰すことが出来ることでしょう。是非そうありたいものです。
③ 第三に、「活性化作用・効果」があります。塩には、人間の身体に活力を与え、細胞を活性化させる効果があります。また神経や筋肉の働きを調整するためにも必須なミネラルを含んでいます。そのようにキリスト者の存在が、人間関係や社会の働きを調整し、活性化する必須の存在と成ったなら、何と幸いなことでしょう。主はお互いキリスト者をこの世にあって、その様な尊い働きを担うようにと遣わして下さっているのです。そのことを思うとお互いは、もっと積極的に社会に出て行き、多くの人々と交わり、人間関係や社会の働きの活性化に仕えなければならないわけです。
このように考える時、果たしてお互いはどこまでこれらの役割を果たし、その尊い使命と責務を全うしてきたでしょうか。しかし、ここで深く心に留めなければならない大切なことがあります。それは「謙遜」と言う、大切な一事です。すなわち、この大切な主から託されたこの世に対する尊い使命と働きを達成するためには、あくまでも「謙遜な心と姿勢」をもって、この世と人々に仕えなければならないと言うことです。それはあたかも「塩のように」でなければいけません。塩は、その相手・対象物の中に自分を投じて、その自分の姿を失うことを通して、その相手・対象物に味をつけたり、その腐敗を止めたり、浄化・活性化を成し遂げます。そのようにキリスト者は、傲慢にも自分が上に立って、他者を教えたり、指導したりすると言う姿勢ではなく、あくまでも「謙遜」に他者に仕え、むしろ自分を隠し、のみならず自分の存在が失われても、少しも惜しくは思わないほど献身的な心と姿勢をもって、その使命と働きに従事することが肝要です。これが「塩のように」と言う意味です。実にこのような心と姿こそ「アガペー(愛)」そのものです。ですから、こうも言えます。すなわち。「アガペー(愛)なくして、塩のようになることは出来ず、塩のようになりたければ、アガペー(愛)の人であれ!」と。そこでお互いが、真に「アガペーの人」でありたいならば、次の主イエスの御言葉を、深く心に止めなければなりません。主は、言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:24~25)と。いかがでしょうか。そこでお互いも、この聖言の深みを深く各自で黙想してみようではありませんか!。(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。