信仰生活の羅針盤(2)

峯野龍弘主管牧師

第2章 傲慢と卑屈

神の恵みの中で心と霊魂の解放と自由を得ていない世の人々は、多くの場合、傲慢と卑屈、高慢と自己卑下の両極端の間を行き来する、振り子のような人生を余儀なくされています。しかし、たとえキリスト者と言えども、真に明確な救いと聖めの体験を得ていない人々においては、ほぼ同様なことが言えます。使徒パウロは、このようなキリスト者を「肉の人」とか、「ただの人」と呼んでいます(Ⅰコリ3:3)。このような「肉的キリスト者」は、所詮、折角尊いキリストの恵みに浴していながらも、依然としてこの世の人々と同じような生き方をしているので、彼はそれを「ただの人」とも呼んだのです。しかしながら、この明確な救いと聖めを体験している成熟した「霊的キリスト者」に対しては、彼は、それを「霊の人」と呼びました(同3:1)。果たして、愛兄姉方は現在、「肉の人」でしょうか。それとも「霊の人」でしょうか。

明確な聖霊による深い霊的お取り扱いを受けていない「肉の人」と呼ばれる段階に止まっている「肉的キリスト者」は、自負心が強く、自らが他者と比較して優っていると思えると、心ならずもいつしかそれを誇り、他者に対して優越感を抱くのです。しかも、それが際立って優れていると、「高慢・傲慢」となり、それを他者が認めず、否定でもしようものなら、自らのプライドが傷つけられたかのように思い、腹を立て、憤ったりするのです。ところがこう言う性質を自らの内に温存している人は、その反対に自らが他者と比較して見劣りがすると思うと、途端に引け目を感じ始め、それを恥ずかしく思い、更にはそれが到底自らの及び難い卓越したものであるとすると、自らがひどく惨めに思え、自己卑下と自己憐憫(れんびん)に陥るのです。ですから「高慢・傲慢」、そして「自己卑下・自己憐憫」は、聖められていない人の心の内にある「同根の自我生命」のもたらす、相反する両極端な二つの結果と言えます。つまり「高慢・傲慢」になり易い性質を温存する人は、また卑屈な「自己卑下・自己憐憫」に陥りやすい人でもあると言えます。このような段階に止まっている「肉の人」、「肉的キリスト者」は、良きにつけ悪しきにつけ、自己のプライドに強く執着していて、自分の評価が高ければ「高慢・傲慢」になり易く、それが低ければ「卑屈」になり、「自己卑下・自己憐憫」に陥りやすいのです。このような何かにつけ自己に執着している状態を「我執」と呼び、この「我執」は聖められなければならない「キリスト者の罪」なのです。

しかし、常に神の御心に従って歩む「霊の人」は、自らの内に支配している「高慢・傲慢」、そして「自己卑下・自己憐憫」の両極端の「同根の自我生命」に気付き、何とかしてこの悩ましい「キリスト者の罪」の性質から聖められ、解放されたいと切に願い、長く「我執」に従って歩んできた自らを深く悔い改め、一切を献げて主に従うことを告白した人であって、このような人の内には、その瞬間から聖霊が主導権を取って下さり、「我執」から聖められた人として、歩んで行くことが出来るのです。

ですから、使徒パウロは、こう言いました。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」(ガラ5:16~18)と。また、こうも言いました。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。」(ローマ8:1~3)と。

何と幸いなことでしょう。それゆえお互いは「霊の人」、「霊的キリスト者」であらせていただきましょう。常に自らに執着して「高慢・傲慢」に陥らず、またその反対に、卑屈な「自己卑下・自己憐憫」にも陥らず、常時、愛と謙遜と平安な心をもって、神と人に仕える「神のしもべ」として、聖められた「霊の人」として、聖霊の導きに従って、進んでまいりましょう。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。