信仰生活の羅針盤(1)
峯野龍弘主管牧師
第1章
旧約聖書の箴言に、「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(同19:21)とある。また「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(同16:9)。更にまた、「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。」(同20:24)ともある。
ある人々は、こうした真理を容易に認めようとはしない。それゆえ、自分の思い通りに事が運ぶと大いに喜び、そればかりではなくこれを自慢し、誇る。しかし、そうならない時には、大いに悲しみ、悩み、遂には憤る者もある。のみならず、その自分の思い通りにならなったことを、次のように弁解したりもする。
- それは、おかれた状態や環境が悪かったからだ。
- それは、誰々がわからず屋で、協力せず、妨害したからだ。
- あげくの果てには、「この世には、神も仏もあるものか。自分がこんなに努力したにも関わらず、すべてが報われなかった」と嘆く。
いかに人間は、自分の中にある問題は棚上げにして、自己弁護したがるものか。これを人間の自己中心主義(エゴイズム)などと呼ぶ。それ以上に、これを「砕かれなければならない『我執』とか『自我』などとも呼ぶ。聖書では、これを人間の中に巣くう醜い「罪の性質」と呼んでいる。
このような人間の心の内には、常に「平安」は宿らず、「悩み」、「思い煩い」、「憤り」、遂には「怒りと憎しみ」が宿る。何と人間は、哀れな醜い存在か。
しかし、心から神を信じ、神の御心を仰ぎ求め、それに従って歩む「恵まれた信仰者」、つまり「真のキリスト者」はそうではない。このような人々は、たとえ物事がうまく行かなかった時にも、「不満」や「苛立ち」、「他者批判」や「自己弁護」、ましておや「恨み」や「憎しみ」など決して抱かない。そのような時、彼らはどうするだろうか。
- 先ず第一に、彼らは謙虚に神の聖前に跪(ひざまず)き、祈り、自らの内に何か御心に沿わなかった罪や過ちがなかったかを、深く内省し、自らを吟味する。
- 第二に、そして罪過ちに気付いたなら、直ちに神の聖前に悔い改め、人々に謝罪する。
- 第三に、もし自らに罪過ちがなかったとするなら、謙虚に自らの弱さ足りなさを認めて、更に祈り、再度立ち上がる。
- 第四に、何よりも思い煩わず、すべてを知り給う神の御手に自らを委ね、神の御心の成るように、自らを献げる。
- 第五に、そして「最善の時に、最善な方法をもって、最善なことを、最善に成し給う、最善な神」を信じて、一切を主に委ねて待ち望む。
その時、彼らの心には、「平安」と「希望」の光が、豊かに注がれる。そして箴言の御言葉にあるように、「人の心には多くの計らいがある。(しかし)主の御旨のみが実現する」ことを知り、また「人間の心は自分の道を計画する。(しかし)主が一歩一歩を備えてくださる」ことをも知り、更にまた、「人の一歩一歩を定めるのは主である」ことをはっきり認めて、一切を全能者である主の御手に委ねて、雄々しく立ち上がることが出来る。
コヘレトの言葉の中に、「すべての出来事、すべての行為には、(神の)定められた時がある。」(同3:17)とあるが、「恵まれた信仰者」、すなわち「真のキリスト者」は、「時宜(じぎ)に適って」(同3:11)万事を司っておられる「全能の神」の定められた時を、心静かに待つことの出来る人々であろう。(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。