自画像に悩む(5)
峯野龍弘牧師
Ⅱ,如何にしたら「自画像」を愛せるのか
さて以上において「自画像」を愛せない理由について学んできましたが、次にひとたび愛せなくなってしまった「自画像」を、如何にしたら再び愛することが出来るのかについて、学んでみることにいたしましょう。
1,主の御愛と御心を知る
その第一は、何よりも主御自身がお互い一人一人に寄せて下さっている深い御愛と御心を知ることです。他人がどう言おうと、また何をしようとも所詮それは不完全な、しかも罪深い、有限な人間の評価と判断に過ぎません。そのことによって何一つあなた自身の生き方を左右されるべき筋合いではないのです。あくまでもあなた自身が真にどうであるかが問題なのです。そこで最も大切なことは、自分自身がどうであるかを判断するための誤りのない、真実な基準をどこに設定するかという点です。果たしてその決定的基準はどこにあるのでしょう。それは他人の中にも、自分の中にも存在しません。それはただ永遠に変わり給うことのない愛と真理と恵みとをもって、慰め、励まし、助け、導いて下さることのお出来になる唯一の偉大な主、何事においても万事不可能のない全能の神の中にのみ存在するのです。しかもそのお方こそ、あなたの真実をことごとく知り尽くしておられ、あなたを誤りなく評価し、尊んでいて下さるお方なのです。ですからひたすらこの主に寄り頼み、この主の御心の中に身も心もお委ねし、日々歩んで行けば良いのです。なぜなら主がそれほどまでにあなたを深く愛していてくださるからです。そこでイザヤは、わたしたち一人一人に寄せる主の深い御愛と御心を、次のように記しています。
「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。・・・わたしの目にあなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛し、・・・わたしはあなたと共にいる。・・・彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のため創造し、形づくり、完成したもの。」(イザヤ43:1,4,5,7)と。
何と驚くばかりの主の恵みでしょうか。その御愛は、測りがたいほどまでに深く、その御心は筆舌に尽くし難いほど絶大です。かくしてこのようにまで深くお互いを愛し給う主の御心がはっきり分かるとき、お互いの霊魂は安息し、かくまで主から愛されている「自画像」を、心ゆくまで受け入れることが出来るようになるのです。ハレルヤ!
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。