自画像に悩む(4)

峯野龍弘牧師

Ⅰ,人は何ゆえ「自画像」を愛せないのか

さて、自画像に悩む原因について更に今ひとつ述べておきましょう。

3,虚栄心と嫉妬心

自画像を愛せない第三の理由は、お互いの心のうちに潜む虚栄心と嫉妬心です。そもそもこれらはいずれも前述したアダムとエバの原罪と世俗的価値観による他者の悪評を恐れるところから起因するのですが、その結果お互いの心のうちに支配し、巣食うようになった虚栄心と嫉妬心は、世俗的価値基準にもとづいて自らより優ると判断される相手に対して、たちまち羨みと妬みを引き起こし、それに比較して見劣りのする自分自身を惨めな者、哀れな者と見做して激しい自己憐憫に陥るのです。そのとき途端に相手と自分自身を受容できなくなり、その相手に対しては激しい妬みと憎しみを覚えるようになり、遂にはその相手に対して受容どころの話ではなく、何と殺意まで抱くようになるのです。それと共に自分に対しては、もはや自己受容できなくなり、そんな自分が嫌になり、そこまで自分を追い込んだ相手ばかりでなく、そのように自分を産み育てた両親まで恨み出し、遂には自分の命を絶ってしまいたくなるほどになります。これが恐るべき嫉妬心の果てにやってくる人間性の破局です。

ところがこのような恐るべき嫉妬心の更に奥深くには、虚栄心が潜んでいるのです。この虚栄心は言うまで無く先に述べたこの世に生きる大部分の人々の心を支配し、毒している世俗的価値観の弊害であって、特に幼少期にこの価値観を、両親を始めとする周囲の人々によって強く打ち込まれ、あたかも一種の洗脳にも似た躾のプロセスにおいて、枠組みされた人々においては、通常一生涯、回避不可能なまでに、この虚栄心がその人の思想と行動を縛るのです。元来生まれつき純粋思考型の優しく、かつ繊細な感性を持った子どもほど、強く感化されやすく、かつ毒され、傷つくのです。そして大人になった時一般人に優って、地位や名誉や財産、容姿や能力などにこだわるのです。とりわけ他者より自分が際立って優位に立つことを欲し、良ければ高ぶり、誇り、悪ければ恥じ、恐れ、悲しむのです。これが虚栄心と言うものの極致です。彼らはかくして羞恥心の虜となり、嫉妬心の塊となってしまうのです。ですからかかる自画像を受容できなくなるのです。今日の社会では、かかる自画像に悩む人々が如何に多いことでしょう。そこで決定的に重要な事は、この世俗の価値観からの解放ということになるのです。

 

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 峯野龍弘(みねの・たつひろ)

 1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

 この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

 主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。