愛による全面受容と心の癒しへの道(115)
峯野龍弘牧師
第7章 「ウルトラ良い子」を健全に育てるための「アガペー育児法」
Ⅲ、第2期 3歳から6歳までの幼児期後半の幼児教育(前回からの続き)
C、高潔な品性、人格の基盤となる気質の育
4 誇り、他者を見下すことの愚かさと過ちを教える
そこで次に高潔な品性、人格を育成するために大切な要件は何でしょう
か。それは誇り、高ぶることを決してしないということです。世俗的価値観に支配されているこの世では、必然的に他者と自らを比較し、もし自分の方が優っているとすると相手を見下し、自らを自負し、誇り高きぶりたくなるものです。また他人もそれを見て相手より優るため自分を高く評価し、称賛してくれたりします。そうなると決して悪い気持ちはしないどころか、その思いの上に自らを据えてかかるのです。これがいわゆる「誇り」、「高ぶり」ということです。これは決して“美徳”とは、言えません。聖書ではこれを「傲慢(誇り・高ぶり)の罪」と呼び、強く戒めています。皮肉なことに他者より誇れる何かが自分にあると認識した瞬間、人間は誰でも「傲慢の罪」の誘惑に遭遇しています。そこでその瞬間、その誘惑に気づき自らをその思いに自分を委ねず、自らが他者に優る何かがあるとするならば、それは自らを誇らせるためではなく、その優る良さをもってそれを持ち合わせていない弱い立場にある他者に仕え、人々を助けるために天が自分にその良き賜物を付与されたのだと考え、その良き優った賜物を決して独り占めしないことです。このような考えと処し方を聖書では、「謙遜」と呼んでいます。そしてこの「謙遜」こそが、人間の真の“美徳”というものであって、こう考えるとき「傲慢の罪」の襲ってきたその瞬間こそが、「謙遜」の“美徳”を自分の心と人生・人格に迎える最良の決定的好機が巡ってきたのだと考えるべきです。
のみならずここでさらに重要な一事を記しておきましょう。それはこのような大切な人生の好機において、「傲慢の罪」の道を選択するか、それとも「謙遜の美徳」の道を選択するか否かの分かれ道は、その心に「欲」つまり「名誉欲」が潜んでいるか、「愛(アガぺー)」が存在しているかどうかに係っています。前者に支配されている人は、その人の如何なる能力にも関係なく、必ずと言っても過言でないほど、「傲慢の罪」の道を選び、誇り、高ぶってしまいます。しかし、その心に「愛(アガペー)」が存在し、それに従って生きる人は、必ず「謙遜の美徳」の道を選び取ることができるわけです。そして「傲慢(誇り・高ぶり)」の道を行く者は、結局自ら他者に誇りながら、その実「醜悪」な人間性を自分自身の内に引き込むことになってしまうのです。なんと愚かな話か。それ以上に何と醜い、恥ずかしい生き方ではありませんか。それなのにこの重大なことに気付かず、自分を喜ばせ誇っている「裸の王様」ほど、気の毒な存在はありません。ですから愛すべきウルトラよい子たちには、小さい時からこの他人を見下し自らを誇ることの過ちと愚かさを、しっかりと教え込んでおく必要があるのです。このことの大切さがお分かりいただけたかと思います。
ちなみに、先に聖書には誇り、高ぶることが戒められていると記しましたが、二、三聖書の言葉を記しておきましょう。
「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」マタイ20:26~27)。
「愛は自慢せず、高ぶらない」Ⅰコリ13:4
「皆互いに謙遜を身につけなさい。なぜなら『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです」Ⅰペトロ5:5
なお、一言この機会に以前にも記しましたが、この他人を見下し自分を誇るということに関する問題性とともに、その関連において他人と自分を比べて「自分を卑下し、自分を蔑視」することの問題性についても言及しておきましょう。なぜならこれまた世俗的価値観の下で他人を評価し見下したと同様に、同じ誤った価値観で自分を見下してしまっているからです。その上これまた自分の名誉欲が鍵となって「傲慢の罪」の扉を開き、自らその中に入っていったように、その同じ鍵を用いて「自己卑下の罪」の扉を開き、そこに立て籠ってしまっているからです。このいずれの扉を開くかは、その欲望が達成されたか否かにかかっていたのです。所詮、その世俗の「欲望・願望」という誤った醜い動機が、双方の判断の基盤・原因になっていたわけです。ですから「傲慢」も「自己卑下」も全く同一の因子・原因に基づいて誕生した「罪の双生児」だったのです。それゆえ「傲慢」も「自己卑下」もいずれも断じて取り込んではならない人生を不幸にする生き方なのです。ですからこのいずれの道にも愛するウルトラ良い子たちを踏み込ませてはならないのです。そこでそうしないで済むウルトラ良い子たちへの子育てが、極めて重要だということになるわけです。お分かりいただけたでしょうか? (続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。