愛による全面受容と心の癒しへの道(63)
峯野龍弘牧師
第5章 心傷つき病む子供たちの癒しへの道
III. アガペーによる全面受容の癒しの道
2) アガペーによる全面受容の癒しが成されるための具体的な道
■癒しへの具体的な道(前回に続く)
①子供への謙遜にして真摯な謝罪と告白 加害者告白
②子供の要求を無条件で全面的に受容することによる和解と真摯な受容の証明
③どこまでも受容し続けなければならい不断の受容
➃ 決して子供の行動を規制せず、積極的に支援する覚悟と決断
⑤ “生産的積極的肯定”こそ受容の後押し
さて、かくして断固たる覚悟と決断をもって「アガぺーによる全面受容」に踏み切られたあなたに、更にして頂きたいことがあります。それは“生産的積極的肯定”と言うことです。
とかく心傷つき病んだウルトラ良い子たちは、考え方や身の振り方が消極的、否定的になりがちです。心も体も共に引きこもりがちになり、物事の判断や行動の選択などが不明解となり、鬱々・悶々とした日々を過ごしてしまっています。一見外交的で、かつ多動的に見える子どもであってさえも、その実、物事の判断や行動の選択においては依然として不明解であり、よろず自分の考えや行動に自信や確信が持てず、不安な日々を過ごしてしまっているのです。皮肉なことに、こうした彼らは意外なほど他人の言動には鋭敏に反応し、手厳しいほどの批判的、否定的、更には攻撃的な速断をくだし、相手を裁いてしまうのです。しかも、その判断はしばしば極端に一面的に偏し、大局的ではないまでも、かなり一理ある鋭い指摘であったりいたします。
そこでこうした彼らに対してお互いはどのように対応したら良いのでしょうか。それが“生産的積極的肯定”です。ではこの“生産的積極的肯定”とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。それはとかく何事についても消極的、否定的になり易い彼らに、慰めと励まし、希望と勇気、夢と展望、安息と生きがい等を促進させる言葉かけと優しい思いやり持った心で、何事についても生産的意味づけを見出しながら積極的にかかわり、決して彼らの考え方や言動を否定せず、万事肯定的に対応し、受容して行くことを意味しています。しかし、こうすることは決して単に相手に迎合したり、相手の言いなりになったりすることではありません。ましておや相手の悪しき言動や罪そのものを肯定したり、容認することではありません。一見それを肯定したり、容認しているかに思われますが、決してそうではなく、彼らが他者を厳しく批判したり、否定したりすることがありながらも、自らは他者から批判されたり、否定されたり、のみならず命令されたり、奨励されたり、禁止されることを極端なまでに恐れ、忌み嫌い、傷つき易い小心な者たちなのです。ここで是非知っておいてほしいことは、彼らがしばしば他者を厳しく批判したり、時には激しい言動に出たりすることは、決して彼らがそのような態度を取れるほど健常であったり、心にゆとりがあったからではないのです。それはまったく正反対であって、実は自らが批判されたり、否定されたりすることを恐れ、また自らが相手に対して何らかの不安や緊張、時には不満を抱いているような場合に、ほぼ発作的に相手を批判し、否定し、裁き、攻撃することによって仮想的自己防衛を図ろうとする哀れなカモフラージュ的異常心理、異常動作なのです。ですからこうした彼らの言動を批難したり、否定したりしようものなら、彼らはますますその不安と緊張、更に恐怖感を高められ、いよいよ激しい暴挙に彼らを駆り立ててしまうことになる以外ではないのです。まさに「火に油を注ぐ」ことになるのです。そこでこのような事態を引き起こさないためにも、何よりも彼らのこのような病める異常心理、異常行動から彼らを癒すためにも、彼らの言動を一切批判せず、否定せず、ただひたすら生産的・積極的肯定をもって吸収・緩和してあげることが決定的に必要なのです。その時、彼らはその心の中に湧き起っていた不安や緊張、そして恐怖や不満から解放され、彼らの心に平安を取り戻し、安息することが出来るのです。そしてのみならず彼らの心に安息を取り戻す時、本来彼らの内に宿っているウルトラ良い子の感性が健常に反応し始め、彼らは自らが為した悪しき言動について気づき、反省し、自己修復をし始めるのです。何と素晴らしいことでしょう!
ある時、一人の心傷つき病んでいたウルトラ良い子の青年が、父親の車を無免許で運転しようとしていました。彼は過去にも何度か父親の厳重な忠告にも拘わらず、父親の出勤中に父親の車を無免許で乗り回していました。丁度その日も彼は近くのスーパーに買い物に行くというので父親の車に乗ろうとしていました。そこで彼は母親に言いました。「スーパーに行くからお前もついてこい!」と。母親は一瞬どうすべきか躊躇しましたが、直ちにこう言いました。「わかったわ!一緒に行くわよ。もし途中で事故でも起こした場合は、お母さんが全責任を負うから心配しないで連れて行ってね!」と。これは彼にとっては、想定外の意表を突くような驚きの言葉であって、当然拒絶され、否定され、散々文句を言われるに違いないと思っていた母親から、意外にもこのような積極的に踏み込んだ肯定的応答を耳にした彼は、すっかり驚き、かつ感動もし、しばらくしたら「もういいや、俺一人で行くから!」と言って、何と自動車にも乗らず一人で歩いてスーパーに出かけて行ったと言うのです。これこそがアガペーによる全面受容の典型的な癒し効果の一例であって、かつ生産的・積極的肯定による愛の全面受容の逆説的妙法なのです。これはあくまでも悪しきことを容認したり、肯定したりしたのではなく、一見容認・肯定したかに見えるほどまでに積極的に相手の懐に飛び込んで愛の全面受容することによって、生産的実りを引き出そうとしてなされた肯定的愛の営みだったのです。こうした意表を突いた逆説的対応によって、病みかつ傷ついているウルトラ良い子の心の深奥に宿っている本来の純粋感性を呼び覚ますことが出来、彼らの心に湧き起っている不安や緊張、恐れや不満を緩和したり、解消したりすることが出来るのです。こうしたことが可能なのも、もとより彼らがウルトラ良い子だったからです。そしてこの“生産的積極的肯定”は、既に彼らに注がれていたアガペーによる全面受容が、いかに真実なものであり、本気であるのかを裏づけし、それを後押しする、より効果ある愛の手法であるのです。果たしてよくご理解いただけたでしょうか。これは極めて大切、かつ有効な癒しの手法なのです。(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。