愛による全面受容と心の癒しへの道(36)
峯野龍弘牧師
第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因
IV. 両親からの抑圧と諸問題
1) 父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地
(3) 真善美、神愛聖、命霊祈、天永滅などの見えざる尊いものへの畏敬心の啓発
さて、子育てに当たるご両親たちには、またしても是非心に留めて頂きたい更なる基本的重要事項があります。それはお互い人間には、他の被造物には決して与り知ることの出来ない、人間だけが理解することの出来る、目に見えざる極めて尊い存在と世界があり、そして人間はそれらを知って心から畏敬しなければならないということです。
果たしてそれらは一体何でしょう。それらのものこそ、実に人間をして人間以外のすべての被造物と決定的に峻別させる、人間のまさに尊厳に関わるものであり、人間が真に人間らしく価値ある存在として生きるための人間としての一大特質であり、まさに人間が人間であるための条件でもあります。
それではこれらの目に見えざる尊いものにして、かつ人間が畏敬しなければならないものとは何でしょうか。ここではそれらの中から特に重要且つ本質的な畏敬の対象としての四大類型だけを記しておきましょう。
i.真善美
先ず第一の類型は、「真善美」です。
a.人間は「真」を求めて生きる存在です。「真」とは何でしょう。それは一般的には「真理」とか「真実」と言われるものです。しかし、それをより本質に従って説明すれば、純粋にして永遠に変わることのない人生における生きるための法則を意味しています。お互い人間はこれに従って生きる時、その真理や真実は、人間各人の性質や人格の内に宿り、それがやがて言葉や行動、そして生活や生涯の中に開花し、結実するようになるのです。
ですから誰でも真に人間として生きたいならば、「真」を求めて生きなければなりません。その時、お互いは真に尊く価値ある存在としてその人間の尊厳を確保することが出来るのです。
しかし、もしもお互いが「真」を求めて生きようとしないならば、それは所詮人間の姿をした動物に過ぎません。なぜなら彼らは「真」を求めず、「真」を所詮理解することが出来ないからです。
b.また人間は「善」を求めて生きる存在でなければなりません。「善」とは何を意味しているのでしょうか。先の真理や真実は、その本質上当然「善」以外ではありませんが、しかし、「真」はそもそもそれ自体、絶対的不変的なものであって、他との比較の上で選択されたり、決定されたりすべきものではありません。
しかし、「善」とは、そのものが置かれている状況や環境の中で、最もふさわしく適合した状態や、また他との比較の上でより優れたものを意味しています。更にまた「善」には、「喜ばしいこと」、「幸せなこと」の意味がそこに付加されています。
そこで人間は常に自らの置かれている場の中で、ふさわしい適格な言行をなし、常にその直面している固有の状況下で最も優れたものを選択し、自らと他者に喜びと幸せを齎すものとならなければなりません。およそ自分だけで善しとして、他者には喜びも幸せも齎し得ないのは、不適格で決して「善」ではありません。
このような人は、もはや真の人間の尊厳を自ら放棄してしまったも同然で、今や動物の次元で生きている者に過ぎません。何と哀れなことでしょう!(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。