「全てが益となるように共に働く」
恵みのうちに
シカゴでの潔めの焔に燃やされて帰国した中田重治が、19世紀末の北米ホーリネス運動の中でアジア宣教の召しを受けた二人の宣教師カウマンとキルボルンを迎えて、1901年神田神保町で開いた中央福音伝道館が淀橋教会の濫觴となりました。中田らは日夜伝道に励み、また館内に聖書学校を設けて伝道者の育成に努め、ホーリネス信仰をわが国に根付かせました。聖書学院と改称した学校にますます多くの献身者が入学するようになったので、1904年10月31日、豊多摩郡淀橋町字柏木(現北新宿)に3000坪の土地を得て移転、それとともに聖書学院教会を併設して学院長の笹尾鉄三郎が初代牧師に就任し、事実上ここに淀橋教会が呱呱の声をあげたのです。(これにより、10月31日を教会創立記念日としています。) 聖書学院において、教職、信徒、求道者の霊的向上を目ざしたに過ぎない超教派的集会も、そこで救われる者が数多く起こされると、独自の礼拝を持ち教会形成へと導かれたのは自然の流れでした。この教会は成長とともにやがて1913年、聖書学院の境内を離れて近くの大久保通りに会堂を新築し、東洋宣教会淀橋教会の名をもって歩むことになりました。
第二代車田秋次を経て、1914年中田重治が第三代牧師となり、教会機関紙「霊光」が刊行されますが、1917年に東洋宣教会日本ホーリネス教会が設立されると中田重治は監督となり、淀橋ホーリネス教会は小原十三司を第四代牧師に迎えます。こうして、1972年まで実に56年余に及ぶ小原の牧会のもとで数々の主の栄光を拝する淀橋ホーリネス教会の歴史が繰り広げられたのです。1919年の「大正のリバイバル」、1930年の「昭和のリバイバル」、この二度のリバイバル経験は日本の福音宣教の歴史に残る顕著な出来事となりました。教会機関紙「霊光」によれば1930年には237名という大きな数の受洗者が与えられ、また1930年から3年間は続けて毎週の礼拝出席者の平均が330名を越えていました。
このように、日本ホーリネス教会の熱心な伝道、活発な宣教活動は、わが国のキリスト教史上目覚ましい実績をもたらしたのですが、悲しいことに1933年教団分裂という大波をかぶってしまいました。しかし、この試練に耐えて、聖書学校を新たに設立し、1934年から教会機関紙を「星光」と新しくし、さらに1935年には会堂の大規模な改築を果たしながら、淀橋教会は一糸乱れず前進を続けたのです。1936年分裂事件に和協分離の解決が与えられたのを受けて、日本聖教会淀橋聖教会となります。
ところが太平洋戦争が始まり、国策によって日本基督教団が成立すると日本聖教会はその第6部に属しますが、1942年6月小原牧師は治安維持法により検挙、起訴され、1943年4月には宗教結社禁止令により第6部ほかホーリネス系の教会は解散、教職は身分剥奪、集会禁止の命が下ります。思想・信仰の自由を許さぬ、いわゆる「昭和の宗教弾圧」でした。この受難は1945年5月の空襲による会堂の焼失、戦災や疎開などのための会員の四散状態と重なり、1945年8月の敗戦を迎えたのでした。
終戦とともに小原師らの免訴、身分回復がもたらされ、困難の中を再建の信仰に導かれて淀橋教会は無一物から不死鳥の甦りをいただきました。それは、1946年1月富士見町教会小礼拝堂を借用して月2回およそ20名ほどの礼拝をささげるところから復興はスタート、新しい教会機関紙「陽光」を発行し、復帰した日本基督教団内に「ホーリネスの群」が発足すると小原師の指導のもとにその中心的役割を担い、教会の声望も高まっていきました。小原師の新生日本のための1000人教会、1000人会堂のビジョンに立って、新宿区大久保百人町の現在地を入手し、1948年再建の会堂が与えられ、本格的再開が果たされました。1950年「ホーリネスの群」の東京聖書学校の移転を受け入れ(以後1980年まで淀橋教会に併設)、小原十三司校長の薫陶のもと多くのすぐれた教職者を送り出しました。1957年念願の大会堂建築に着工、熱い祈りとおびただしい汗の献身的奉仕に支えられ、1964年7年余の歳月を重ねて見事に当時のわが国プロテスタント教会中最大の規模といわれた大会堂(旧会堂)の完成を見たのでした。1969年には第一回天幕伝道集会(現在のオータム・フェスタにつながる)、が始められましたが、ついに1972年、半世紀あまり激動の時代の淀橋教会を守り抜き、ホーリネスの信仰を導いた大牧者であり、また日本の福音派諸教会の卓越したリーダーでもあった小原十三司師は82歳をもって天に凱旋され、教会は第五代牧師の峯野龍弘に委ねられたのです。
若く活気にあふれた峯野師に率いられ、決意も新たに先達の据え遺した大きな基礎の上に宣教と教会形成に邁進する時が訪れました。1975年には宣教幹事の任職があり、また教会聖歌隊の編成と活動が始まり、続いて、1984年東戸塚福音伝道館(現東戸塚エルシオン教会)、1985年福岡福音伝道館(現福岡エルシオン教会)とブランチが相継ぎ発足し、以後次々に開拓伝道の働きが推し進められました。そして1985年には毎週の礼拝出席者平均が315名となり、その後1994年まで平均して300名を超える礼拝を捧げる祝福をいただきました。このような歩みのうちに、1991年「アガペー共同体」の理念が示され、これを追い求めつつ教会形成が進み行き、そこから日本宣教のビジョンに立つ2000人新会堂建設へと導かれ、1995年に起工したわが国で一、二をあらそう規模となる新会堂(総面積1605.4坪)は1998年に竣工し、内外からの祝福をいただいて献堂の恵みにあずかったのです。あわせて教会組織も「アガペー共同体」として整備されることとなり、「アガパニアン」が正式に教会機関紙となりました。この間、混迷する時代の波に抗する中、1993年に日本基督教団を離れてウェスレアン・ホーリネス教会連合に加わり、連合はさらに2003年に包括宗教法人ウェスレアン・ホーリネス教団となって今日に至ります。
このように、恵みから恵みへの恩寵のもと一世紀を歩ませていただいた淀橋教会は、2004年10月ついに創立100周年を祝う日を迎えたのです。10月29日、創立記念式典と祝賀会が内外多数の賓客の列席のもとに挙行され、続いて10月31日には記念礼拝の後に記念講演会が開かれ、またこの間宣教大会、特別講演会がもたれるなど、祝福に満たされた一連の記念行事の恵みをいただきました。
かくして2006年5月「淀橋教会アガペー共同体機構」がスタート(第26回教会総会)、6月4日ペンテコステの聖日に神の祝福をもたらす器の養成を願って声楽・器楽・和太鼓のクラスをもつアガペー・ミュージック・インスティチュート(AMI)が開校し、10月26日には韓国光林教会と宣教協約を結び、これによって駒ケ根愛の家地内に建てられた光林国際ミッションセンターの竣工・献堂式が、翌2007年5月22日に献げられ、これを機に駒ケ根パノラマ・エルシオン・チャペルが開設されました。更に08年8月の中国語部礼拝、09年3月の英語部礼拝、同9月の韓国語部礼拝とつぎつぎに始まり、教会の国際化の恵みは国際宣教会の発展へと進みました。
2011年3月11日の東日本大震災では直後の16日アガペーCGN災害支援緊急援助隊を立ち上げ20日に第1次援助隊を宮城に派遣、その活動は岩手、福島にも及び今日までなお継続中です。また諸教会に呼びかけて復興支援超教派一致祈禱会を4月11日から開き、毎月11日の祈りの集いが休みなくつづけられ、満10周年を越え2021年10月で第127回の祈りがささげられました。
2011年6月にはアガペー福音宣教学院が開講、信徒伝道者並びに教会奉仕者育成が始まりました。
2012年10月には入堂以来のテナント「ワールド・ビジョン・ジャパン」の転出に伴う西棟2・3階の改修が完了、東棟地下を除く会堂全館が教会の働きに用いられる時が備えられ、わたしたちは新会堂のビジョン2000人礼拝への主の導きを心あらたに覚えさせていただきました。先に2010年スタートの大阪エルシオン伝道所に続き2015年6月には沖縄共生エルシオン伝道所(現沖縄共生エルシオン教会)が開設されて、淀橋教会の福音宣教の働きに新しくブランチの輪がひろげられました。2024年の創立120周年をめざして、いま、わたしたち淀橋教会は、水のほとりに植えられた木のように青々と繁り、実を豊かに結び続け行く(詩編1:3) 願いのもと、常に共にいます主の恵みのうちに、主の愛を証しし宣べ伝える日々の歩みに励んでいます。