信仰生活の羅針盤(7)

峯野龍弘主管牧師

第6章 聖めの恵み(聖化の恩寵(おんちょう))

さて、ここで「聖化の恩寵」、つまり「聖めの恵み」と言うことについて学んでみましょう。このことは「充実したキリスト者生涯」を過ごすためには、極めて重要な学びであり、体験でなければなりません。しかし、残念なことですが、多くのキリスト者がこのことの重要性について気付いておらず、この恵みに与ることなく、人生を過ごしてしまっています。折角、罪許され神の子とされ、祝福されながら、その恵みの中に安住してしまい、更なる信仰の深化と成長、そして何よりも大切な神の栄光と他者の祝福のために、尊い使命に生きる、より積極的な人生のあることに気付かず、更にその先に用意されている「聖化の恩寵」、つまり「聖めの恵み」に与ることなく、信仰生涯を終わってしまっていることは、まことに惜しくもあり、残念なことです。それは単に自分の人生の大なる損失となるばかりではなく、他者の祝福のためにも、何よりも神の栄光のためにお互いをお用いになりたいと願っておられる神の御心を、阻害することになるからです。その結果、福音の宣教は立ち遅れ、神の御国の業の拡大が、阻まれてしまっているのです。それがまぎれもなく、お互いが救われた後に、更にその先に用意されている「聖めの恵み」(聖化の恩寵)に与り損ねているからにほかなりません。この状態は、少し厳しい言い方をすれば、「キリスト者の犯してしまっている自己中心の罪」の結果であると言っても過言ではありません。そこでお互いは、どうしてもこの「自己中心の罪」から解放していただく必要があるのです。これが一言で言えば、「キリスト者の聖め」の問題であると言えます。そこで以下において「キリスト者の聖め」について、しっかりと学び、一人もれなくこの「聖めの恵み」(聖化の恩寵)に与り、充実した、かつ円熟したキリスト者生涯を過ごしていただきたいものです。

Ⅰ. 聖められなければならない自己中心の罪の孕む諸問題

そこで、聖めを必要としている「自己中心の罪」が孕んでいる、様々な問題点について、具体的に考えてみましょう。

①「自己中心の罪」を生み出している、その根源にある「我欲」と「我執(がしゅう)」

そもそもお互いが「自己中心」と言う罪を犯すのは、実はその心の根底に聖められなければならない「我欲」と「我執」が支配しているからです。「我欲」とは、それが真に神の御心に適い(かない)、自他ともに祝福に与ることができる良きことを願望するのではなく、単に自ら好むこと、また自分にとって有益と思えることや楽しいことを取り込もうとする自己中心な欲求・欲望のことを意味します。「我執」とは、「自分自身の考えや行動に強く固執・執着すること」、つまり「他者との調和を欠くほどまでに自分の考えに執着し、自己主張する強いこだわり」を言います。その結果、他者の考えや行動を受容できず、それを抑圧したり、否定したりする「自己中心主義(エゴイズム)」に陥るのです。これが「自己中心の罪」です。

②「高慢」と「他者への裁き」を生み出す

お互いは、ひとたび「自己中心の罪」に陥ると、「高慢」と「他者への裁き」の罪を派生することになります。いつしかそれが、自意識過剰な「独りよがりの思い上がり」を生み出し、自ら気付かない内に自分を高ぶらせ「高慢もしくは傲慢」となり、遂には「他者批判」と「他者への裁き」となって他者を抑圧し、悲しめ、傷つける罪を犯すようになるのです。

③「自己卑下」と「自己憐憫(れんびん)」を生み出す

「自己中心の罪」に陥りやすい聖められていない人は、皮肉なことに自分が欲求を満たし得なかった時や、他者が自分が成し遂げ得なかったことを成し遂げたり、自分より優る良き働きや立場、能力等を持っていることを知るとき、その途端に相手を嫉妬し、そればかりではなく自分がひどくみじめに思われ、自分の中にはほかの部分で素晴らしい賜物や資質が宿っているにもかかわらず、只いたずらに自分を卑下し、どうせ自分などは誰からもよく評価されることはないと嘆き、「自己卑下」と「自己憐憫」に陥ってしまうのです。これまた「自己中心主義(エゴイズム)」が生み出す「派生的罪」、つまり「羨み、妬む罪」、「自己卑下と自己憐憫の罪」と言われるものなのです。

ですからお互いは、何としてもこれらの派生する諸々の罪から聖められなければならないのです。そうでなければ、決して充実した、更には円熟したキリスト者生活を、全うすることができません。主は、そのためにお互いに、「聖めの恵み(聖化の恩寵)」の道を備えて下さったのです。そこで更にしっかりと「聖めの恵みに与る道」について、学んでまいりましょう。(続く)

峯野龍弘(みねの・たつひろ)

1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。

この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。

主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。