安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(18)
峯野龍弘牧師
第5章 主イエスの歩まれたアガペーの生涯の日々
Ⅳ. 見くびられ軽視されがちな、いと小さな者にも寄り添われた主イエス
とかく世の人々は相手にするに値しないような、どうでもよい者や邪魔な者には、見向きもせず、かかわりを持とうともしませんが、しかしアガペーの主イエスは、このような一人をも大切にされ、むしろこのような人々とどのようにかかわるかによって、その人の信仰と愛と人格の良質の「度合い」が、推し量られると教えられました。それゆえ随所で主イエスは模範を示され、譬(たと)えでその大切さを示唆されたのです。その主のお姿と教えを幾つか福音書の中に訪ねてみましょう。
(1)小さな子供たちに心寄せられた主イエス
ある時、ファリサイ派の人々が主イエスのところにやって来て、難題を吹きかけ主を試そうとしました。まさにそのやり取りが始まったその最中に、子供たちを連れた親たちが御許にやって来て、この子供たちに按手して祝福を祈ってほしいと、願い出たのです。それを見た弟子たちは、主イエスとファリサイ人たちとの間の、重要な論議が交わされようとしているその最中、突然割り込んできて、このような厚かましい願い事をし、邪魔をする無頓着な親たちに腹を立て、彼らをりつけ追い払おうとしました。その瞬間、主はその弟子たちを制し、こう言われたのです。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」(マタイ19:14)と。
そうです。ここで主イエスは、単に小さな子供たちを深く愛され、子供たちを大事にし、子供たちに心を深く寄せられ「アガペーの主」をお示しになったばかりではなく、それを越えて更に重要なことを、そこにいたファリサイ派の人々や弟子たち、そして人々に教え諭されたのでした。
その第一は、ファリサイ人に対してです。それは主イエスに難題を吹きかけ、主を何とかして陥れようとたくらんでいたファリサイ人たちに、その傲慢さと過ちを指摘するためでした。彼らは自らが律法の教師であることを自負し、日頃人々に向かって神の国について教え示していながら、今やその心は主イエスを陥れ失脚させようとする邪心・欲心に駆り立てられていることを主は見抜かれて、この幼子たちこそがその心は純真にして聖く、神の国にふさわしいのであって、あなたがたファリサイ人は、まさに失格者であると説諭されたのでした。「天の国はこのような者たちのものである」と言われた時の、悪質な質問者ファリサイ人たちは、果たしてその時、どんな顔をしてそこに立っていたことでしょう。まさに赤面したことでしょう。
第二に、それは弟子たちに対してでした。この出来事が起こるほんの少し前のことでした。弟子たちが主イエスに、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(同18:1)と質問したことがありました。その時、主はそこにいた一人の小さな子供を呼び寄せ、彼らの前に立たせて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(同18:3~5)と言明されました。ところがそれからまだ日も浅いこの場面で、弟子たちがすっかりこの大切な戒めを忘れ、不甲斐なくも子供たちを退けてしまったことをご覧になった主イエスは、どんなにか失望されたことでしょう。そこで再び、ファリサイ人たちと共どもに、このことの重要事を再認識させたのでした。
そして第三に、当然のことながらそこにいたすべての人々に、そしてその親たちにこの大切な神の国、すなわち天の国への「入国の心得」を伝授されたのでした。そこで決して小さな子供だと思って、子供たちを闇雲に退けたり、無視したりせず、子供たちに寄り添い、子供たちの将来を思い、また子供たちがその存在を通して尊い何かを発信していることに気付き、謙虚に教えられたいものです。(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。