安らかに心豊かな人生を過ごすための道しるべ「主と共に、主イエスに倣って」(17)
峯野龍弘牧師
第5章 主イエスの歩まれたアガペーの生涯の日々
Ⅲ. 一般社会から見捨てられ、忌み嫌われていた人々に寄り添われた主
アガペーの主イエスは、当時の一般社会から見捨てられ、忌み嫌われていた人々を深く憐(あわ)れまれ、彼らに寄り添い、彼らの人生に活路を開かれました。
主イエスご在世当時のユダヤ社会では、はき違えられた律法理解と歪められたユダヤ教信仰の悪影響下にあって、当時の民衆は「重い皮膚病(ハンセン氏病)」や「悪霊に取りつかれた者」、そして「異邦人」や「徴税人」、「罪人」などを、ひどく軽蔑し、のみならず彼らと交わることを忌み嫌い、見捨てたりしていました。
ところが主イエスは、それらの人々を愛され、彼らを受け容れ、彼らと親しく交わり、彼らの病や苦悩を癒し、解放し、彼らをその中から救い出し、彼らに幸せな人生を迎えさせて下さったのです。
(1)重い皮膚病からの癒し
主イエスが、ガリラヤ湖畔の山の上で人々に尊い愛の教えを説かれ、つまり「山上の垂訓」を話し終え山を下りられると、大勢の群衆が主イエスの後を追ってきました。その中には人々から忌み嫌われていた「重い皮膚病」を患っていた一人の男がおり、彼が主イエスの御許に近寄り、その足元にひれ伏し、ひたすらに清めて欲しいと願い出ました。おそらくそこにいた弟子たちも、人々も一瞬その場から身を引いたことでしょうが、主イエスは即座にその人に「手を差し伸べその人に触れ」、「よろしい。清くなれ」と言われたのでした。何とその瞬間、その人の長い間苦しみ、悩み、病んでいた「重い皮膚病」は癒されました(マタイ8:1~3)。その時、彼はどんなにか喜び、人々は驚いたことでしょう。
(2)異邦人の百人隊長の僕の癒し
主イエスが、カファルナウムにおられた時のことでした。そこにユダヤ人からは蔑視(べっし)されていた異邦人であるローマの百人隊長が、わざわざ主イエスの御許にやって来て、自分の僕が中風で悩み苦しみ、寝込んでいるので、何とかして癒してほしいと懇願しました。これに対して主イエスが、これまた即座に「わたしが行って、いやしてあげよう」と応答されました。ところがその百人隊長は心から感謝しつつも、実に謙遜に「自分の屋根の下に(主イエスを)お迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と言ったのです。なぜなら自分も権威ある立場にあり、自分がひと言発するならば命令通り部下が動くように、神の御子である主イエスであるならば、神の権威をお持ちであるので、その「ひと言」をいただければ、必ず僕は癒されると彼は信じたからでした。この百人隊長の言葉を聞かれた主イエスは、深く感心され、選民イスラエルの中にさえ、これほどの信仰を見たことがないと言って、これを弟子やユダヤ人の前で大いに称讃され、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言われたのでした。すると丁度その時間に、長く苦しみ病んでいた僕は癒されました(同8:5~13)。
(3)悪霊に取りつかれていた男の癒し
また主イエスは、ガリラヤ湖の対岸のガラダ地方に行かれました。そこには墓場があり、そこには家族からも、人々からも恐れられ、見捨てられていた哀れな悪霊に取りつかれていた二人の男が暮らしていました。彼らは非常に凶暴な人間で、野獣のようでした。ですから誰一人としてその辺りを通る人もいませんでした。しかし、愛と恵みと力に満ちておられたアガペーの主イエスは、あえて彼らのもとを訪ね、彼らをこの苦悩の中から救い出し、彼らを長い間苦しめ支配していた悪霊を追放されました。その際逃げ出した悪霊どもが、近くに放牧していた豚の群れの中に入ったため、豚たちは一目散に崖を下り、湖の中に飛び込み死んでしまいました(同8:28~34)。このことにより哀れな二人の男は、全く生まれ変わり、素晴らしい人生を生き抜くことが出来たのです。
(4)徴税人や罪人と食事を共にされた主イエス
さて、ある日のこと主イエスは、収税所に座っていた徴税人のマタイと言う人物に目を留められ、「わたしに従いなさい」と声をかけられ、弟子の一人に迎えられました。喜んだマタイは主イエスを自分の家に招き、食事のもてなしをしました。その時、これを聞きつけ大勢の徴税人仲間や罪人たちも同席し、共に親しい会食のひと時が持たれました。ところがこれを目撃したユダヤ教のファリサイ派の人々が、これを軽蔑し弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と批判しました。ところがこれを聞いた主イエスが、すかさず彼らにこう言いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(同9:12~13)と。
そうです。アガペーの主は、決して誰一人として人間を蔑視・軽視なさいませんでした。世俗の価値観や宗教的枠組みで人を差別せず、世間の評判や評価ではなく、その人に真の救いが必要であり、しかもその救いは主イエスのご愛と御力によらなければ成し遂げられないので、主イエスは彼らを深く憐れまれ、彼らを愛して一人一人に寄り添われるのです。しかし、折角主イエスがこのように大きなご愛をもって、各人に寄り添って下さっても、その一人一人が真剣に救いを求め、自らの今までの生き方を変えて、新しく主イエスの愛の教えに従って歩もうとしない限り、その尊い恵みは一切彼らの身に成就しませんが、これらの人々はそれを拒まず、それに依り頼みました。その時このように一般社会から拒絶されていた人々も、主イエスの愛に寄り縋(すが)り救われて、その人生を変えることが出来たのでした。まさに主イエスは、如何に見捨てられた人々をも惜しみ、憐れみ彼らをも救うため寄り添われるお方です。ですから主イエスの愛に寄り縋(すが)り、いよいよ身を委ねようではありませんか!(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。